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米・雑穀・豆・粉
(有)土遊野

富山市の中山間地で有畜循環型農業を実践する

橋本さん一家

橋本秀延・順子さんご夫妻と娘の恵さん

農場では小水力発電の実験も行っています

産地交流会で

土遊野農場の生い立ち

 

 企業や事業者に対する告発型の運動が多かった1970年代、当時として珍しく具体的な対案を持ち汗をかく活動として「草刈り十字軍」がありました。富山県の大学教員・足立原氏が造林地の除草剤散布を止めさせるために、“鎌を持って草を刈ろう”と呼びかけ、その訴えに共鳴した人々が全国から集まりました。「草刈り十字軍」は除草剤の散布を中止させた後も活動を継続し約4000人の人々が参加してきました。こに集まった若者たちは生きかたを変え、新しい価値観を持ち、やがて地域づくりの核として育った方も少なくありません。橋本秀延・順子さん夫妻もその一人でした。 サラリーマンの家庭で育った秀延さん、旧家の醤油家に生まれた順子さん。共に農家でない2人が出会い、草刈り十字軍の分校のあった旧大沢野町の土(ど)の棚田の風景に接し、その素晴らしさに魅せられここで農場を開くことを決意します。 試行錯誤を経て2人が現在の土遊野(どゆうの)農場がある富山市土に移住したのは1983年のことでした。土は富山市の中心街から車で30分のところにありますが、交通不便な場所です。神通川を渡り小羽地区から先は冬場は車一台が辛うじて通れる道を下って到着する場所にあります。橋本夫妻が移住した当時は6軒あった集落は、やがて橋本さん一家だけが残ることになりました。

 

有畜循環型の農法

 

 この地で橋本夫妻はできる限り自分たちで食べるものは自給し生き物たちの力を借りて生活を営む、有畜循環型の農業を始めることになります。日本の中山間地は高齢化と過疎化が進み耕作放棄した田んぼが増える一方です。橋本夫妻は日本の里山の原風景とも言える棚田を守るため、条件の悪いところでも田んぼ仕事を請け負い現在は圃場を6haまで広げてきました。山間部の田んぼは点在し耕地面積も狭いためお米作りの効率はとても悪いのですが、人手が足りないところはアイガモによって除草しています。アイガモは雑草を食べるだけでなく、田んぼの水をかきまぜることで土に酸素を入れ肥料の吸収をよくし、アイガモの糞は稲の養分にもなります。 お米作りと並ぶもう一つの柱は養鶏です。約1000羽の鶏を平飼い鶏舎で飼い、餌は輸入穀物は使わず、野菜や屑米に周囲の学校給食で残った残渣なども与えます。その鶏糞は田んぼや畑に撒き肥料にします。ヤギもここでは主役の一人。ヤギから乳を絞り加工品の原料にします。農場では年間約30種類の野菜や小麦・そば・飼料イネも育てます。こうして生まれた農産物や加工品は自分たちで販路を広げ販売してきました。

 

現在の土遊野農場と共同購入会の取り組み

 

 限界集落とも呼ばれる土集落ですが、30年近くの取り組みの中で土遊野農場では若い人たちの賑わいも生まれてきました。昨年大学を卒業した娘のめぐみさんが家に戻ってきて野菜主任として働いています。めぐみさんはケーキや天然酵母のパン作りなど加工部門も担当し、玄米粉や卵・ヤギ乳など農場の素材を生かしたシフォンケーキを製造しています。 土遊野農場には現在7名のスタッフが働いていますが、8年前からスタッフとなった加藤京子さんはここで家を借り、養鶏の手伝いをしながら仲間たちと米作りを始めました。1反(約10a)耕せば一家族4人が2世帯分食べるには充分のお米が採れるそうです。田んぼには年間を通して仲間たちが通い、お米は昔ながらのはざがけ天日干しで乾燥します。 土遊野農場ではファームスティにも積極的で、富山YМCAと提携して「地球っ子スクール」を開催。毎年子供たちの農業体験にやってきます。また、参加者が農作業を提供しながら食事と宿の提供を受ける「WWООF」登録農家として海外からの若者も受け入れています。 2年からはエネルギーの自給も目指す取り組みも始めました。富山国際大学と富山高等専門学校の協力で小水力発電所をここに建設し、自家用の電源と電気自動車の動力源にする予定です。小水力発電はダム発電などと違って発電量は大きくはありませんが、水の循環を断ち切ることがなく、沢の少ない水量の落差を利用しても発電できる方法で山里のエネルギー源として最近注目を集めています。 みどり共同購入会・風屋共同購入会とは2009年に契約米・コシヒカリの取り組みが始まり、2010年には注文米・イセヒカリの取り組みを行うようになりました。今年度の契約米は昨年を上回る申し込みがありました。棚田で採れるお米を食べることは日本の山村の環境を守っていくことに繋がっていきますが、なによりお米そのものが美味しいと会員の皆さんに評判です。それは山あいに流れる水と昼夜の気温の差が美味しいお米を育てる条件となっているからでしょう。昨年は初めてここで産地交流会を実施しましたが、今後も会員の皆さんが土遊野農場の農的な暮らしに触れる機会を作っていきたいと考えています。

<取材:2010.11.13> 注:現在、橋本めぐみさんは結婚され河上姓となり、土遊野農場代表となっています。

西屋 正さん

冬場でも水を張り農薬を使用しない田んぼは

生きものと共存する世界が広がっています

西屋さんと収穫直前のお米

西屋さんの田んぼはタニシなど生き物がいっぱいいます

冬季には白鳥も飛来する西屋さんの田んぼ

西屋さんとお米の栽培

 

 西屋さんは1951年生まれの専業農家で、羽咋市深江町で4.5haのお米を栽培しています。自然農法の元祖として知られる福岡正信氏の影響を受け、自分もいつか田んぼにじかに種もみを蒔き、一切の手を加えず収穫できるような農法にしようと長い間模索してきました。4.5haの栽培面積のうち、2/3が農薬や化学肥料・除草剤無使用の圃場で栽培した米です。残り1/3の圃場は早場米「ほほほの穂」などを作っています。 お米の栽培は次のように分けています。 〈A〉15年以上(2010年現在)農薬や化学肥料・除草剤を使用しない圃場。品種は「コシヒカリ」。 〈B〉みどり共同購入会との提携がきっかけで、除草剤1回使用していた圃場を2006年から農薬や化学肥料・除草剤を使用しない圃場へ転換したもの。品種は「コシヒカリ」。 〈C〉石川県早生奨励品種の「ほほほの穂」を作付けしていますが、これは主に9月までに地元の農協に出荷します。新米として最も早く店頭に並ぶ米で、農薬は除草剤を1回使用、化学肥料も有機肥料と併用して使用。 みどり共同購入会でのお米の取り組みは、毎週注文できる「注文米」は〈A〉のお米を、「年間契約米」は〈B〉のお米をそれぞれ企画しています。また、年によって「注文米」が不足するときは〈C〉の早場米「ほほほの穂」を8月末〜9月上旬に企画しています。

 

西屋さんの米作り(上記〈A〉〈B〉のお米)

 

 富山県は兼業農家率が全国トップクラス、9割を超える県です。兼業が多いということは逆に農業を本業とするプロが少ない地域でもあります。兼業で他の仕事に忙しく農業では余分なことをしたくない。上から言われたとおりのことだけをやればいい。営農指導する農協も新しい時代に応じた対応が取れていない。そうした現状で西島さんが自分の思った米作りをするには、自らの力で歩む必要に迫られました。農薬を使用しない生産者や研究者がいれば訪ねていき、専門書を読み学んできました。米作りの失敗を繰り返す中でサラリーマン生活では得られない農業の魅力の取りつかれ、時間的な制約から兼業で試せなかったことをもっと実践してみたい。そんな思いから2004年に農業を専業にすることに決めました。専業で食べていくために栽培したお米は有機認証を取得し販路も独自に作ってきました。近隣の農地を借りて圃場を広げ、お父さんの代に耕作面積が2町だったものを13町歩までに増やしました。現在その圃場の約半分が農薬を使用しない圃場で、そのうち3.5町で有機認証を受けています。 自然相手のお米作りは1年間に1回しか経験できません。当初はアイガモ農法をやっていましたが、アイガモのヒナをカラスやハクビシンにやられ、半不耕機栽培を試してみましたが納得のいかないことがありました。現在はある程度稲の苗が丈夫になり雑草に負けない大きさになってから田植えを行い、田植え前に肥料にベアリッチという緑肥をすき込むようにしています。また、土壌分析をして足りない栄養分を入れることによって稲そのものの力を強くしています。そうした試行錯誤の中で自分なりの有機農業の形が見えてきたそうです。

 

お米作りの楽しさを伝えるために

 

 西屋さんは冬場ずっと田んぼに雨水や雪を貯めます。冬場は池のようになっているのでカモなど野鳥がやってきて雑草の種を食べたり、肥料となるふんを落とします。春になると、田んぼを5cmほど浅く掘り起こし、(半)不耕起栽培として苗を移植します。6月ごろ魚を発酵させた有機肥料を追肥し、草取りはしません。 田んぼに生育しているイトミミズやザリガニが雑草をかき回し枯らしたりフンをして土を豊かにしたりして自然の営みに任せています。前年の稲刈り前後、3ヶ月ほど田んぼから水を落としますがザリガニやタニシなど小動物は住み着いています。 お米は本来陸の上に育つ植物と言われていますが、水がある湿地でも育ちます。陸に育つ時の苗と湿地に育つ苗と根は別のもので、西屋さんの(半)不耕起栽培の特徴はイネが持つこの特性を生かし、イネは生きるけれど他の草は生きられないように水を管理しコントロールしています。また、多くの生き物と共存する事で農薬や化学肥料・除草剤を使わず、生命力のあるお米を育てます。<取材:2011年8月29日>

西島 守さん

美味しい米を食べるには自分で作るしかないと、

脱サラして後を継ぎ有機農業を始めた生産者です

2008年 稲刈り交流会にて 前列右から3人目が西島さんです

2008年8月息子さんと、左には有機圃場を知らせる看板が

自家生産のお米を使って麹も作ります

36歳で専業農家となった西島さん

 

 西島さんは実家が農家でしたが、農業を本業としたのは48歳のときでした。長くサラリーマン生活を経験し三重県に赴任した後、富山に戻ってきたのが1988年のことでした。帰省してもサラリーマン生活を続けていましたが専業農家になる決心をしたのは、30歳前に「美味しんぼ」という漫画を読んだことがきっかけです。会員の皆さんならご存知だと思いますが「美味しんぼ」は、今日のグルメブームを作った漫画だと言われ、現在104巻を重ねるロングセラーとなっています。主人公が“美食”を探し求めた末に、実は本当の美食とは日本の気候風土の中で育まれ、先人の知恵やモノを作る人たちの努力によって作り出されていることを漫画という表現をとおしてわかりやすく描いています。 本当の美食とは何か。西島さんは美味しく安全なお米を食べるには、自分でやってみるのが一番だと考えました。職業選択の自由があるといわれるこの国ですが、農業は土地と経験が必要で農家の子供でもなければあとを継ぐことが難しいのが実情です。西島さんは農家の長男だったので米作りをする選択は難しいことではありませんでしたが、大変だったのは両親との価値観の違いでした。両親が周りとおなじような慣行農法を続けてきた中で、一人で農薬や化学肥料を使用しない米作りを模索してきました。

 

独学で有機農業の世界を学ぶ

 

 富山県は兼業農家率が全国トップクラス、9割を超える県です。兼業が多いということは逆に農業を本業とするプロが少ない地域でもあります。兼業で他の仕事に忙しく農業では余分なことをしたくない。上から言われたとおりのことだけをやればいい。営農指導する農協も新しい時代に応じた対応が取れていない。そうした現状で西島さんが自分の思った米作りをするには、自らの力で歩む必要に迫られました。農薬を使用しない生産者や研究者がいれば訪ねていき、専門書を読み学んできました。米作りの失敗を繰り返す中でサラリーマン生活では得られない農業の魅力の取りつかれ、時間的な制約から兼業で試せなかったことをもっと実践してみたい。そんな思いから2004年に農業を専業にすることに決めました。専業で食べていくために栽培したお米は有機認証を取得し販路も独自に作ってきました。近隣の農地を借りて圃場を広げ、お父さんの代に耕作面積が2町だったものを13町歩までに増やしました。現在その圃場の約半分が農薬を使用しない圃場で、そのうち3.5町で有機認証を受けています。 自然相手のお米作りは1年間に1回しか経験できません。当初はアイガモ農法をやっていましたが、アイガモのヒナをカラスやハクビシンにやられ、半不耕機栽培を試してみましたが納得のいかないことがありました。現在はある程度稲の苗が丈夫になり雑草に負けない大きさになってから田植えを行い、田植え前に肥料にベアリッチという緑肥をすき込むようにしています。また、土壌分析をして足りない栄養分を入れることによって稲そのものの力を強くしています。そうした試行錯誤の中で自分なりの有機農業の形が見えてきたそうです。

 

お米作りの楽しさを伝えるために

 

 西島さんはお米を“商品”として売るだけでなく、お米作りを楽しみたい。消費者の人にも農業のおもしろさを伝えたいという思いを持っています。お米の品種もコシヒカリだけでなく、古代米やミルキークイーンなどの品種の作付けをしてきましたが、新しくササニシキの栽培も始めました。このお米はアレルギーの抗体反応が出にくいと言われています。このようなお米をみどり共同購入会の会員の人が探していると西島さんに伝えると、それに応えてすぐに作付していただきました。西島さんは、これからも雑穀や消費者が希望するいろいろな品種のお米を栽培したいそうです。そのためには一部の品種がうまくいかなくても他で補えるように、耕地面積を20町位に拡大したいと考えています。 有機米なら首都圏のお米屋さんへ販売したほうが高く売れ、自分で精米する手間もかかりません。そんな中で2006年からみどり共同購入会と提携したのは、地元で消費者の人たちに直接向き合うことができるからでした。2007年は会員の子供たちを田んぼに呼んで一緒になって除草や田んぼの生き物を観察しました。2008、2009年はお米を手刈りで収穫して、稲穂ごと天日に干す「はざがけ」体験を行いました。お米は天日で乾燥されることで更に美味しくなります。機械乾燥と違って今では限られた人しか味わうことができないお米ですが、刈り取りを手伝った人には後日、はざがけ米を食べていただきました。 西島さんは今でも両親と農業に対する考え方は違っているそうですが、農作業の中心を守さんが担うようになり、温かい態度で両親にも応援してもらえるようになりました。農業を主体的に選択する人たちが増え、生産者が自立してお米作りを行うようになれば、日本の農業も大きく変わっていくことでしょう。富山市の中心から車で30分もしない地の利を生かし、みどり共同購入会では今後も西島さんと会員の皆さんの交流の機会を作っていきます。

<取材:2009年9月>

まめっこ倶楽部

豆の町・北海道本別で広がるお母さんたちの輪

まめっこ倶楽部の皆さん

生産者の豆畑にも案内していただきました

出荷される豆は全て丹念に手で選別されます

日本一の豆の産地・本別町

 

 北海道十勝地方は道内の8割の豆を生産する日本一の豆の産地です。十勝地方の東北部に位置する本別町は畑作に適した黒々とした肥沃な土地で、内陸性の気候が豆の生産に適しています。年間の日照時間が長く、豆の成長期から収穫期にかけて昼は暑く、夜は涼しい一日の寒暖差が糖分をしっかり蓄え、甘くて風味豊かな豆を育てます。 そんな本別町で1997年に農家のお母さんたちで11名で始めたのが「まめっこ倶楽部」です。今まで生産者として畑で収穫したものを農協で出荷するだけでしたが、自分たちで作ったものを直接消費者に届けることによってお客さんの反応を知り、作る楽しさが増えました。当初はお母さんたちの小遣い程度だった売上げが、やがて子どもの学費を賄えるようになり、今では各生産者の作付けした面積の約5%が「まめっこ倶楽部」を通して販売されるようになりました。「まめっこ倶楽部」の豆は全国500人を超える通信販売の会員や道内のスーパーや直売所、料理店や加工業者の人たちに届けられます。 本別町で生産される豆の種類は豊富ですが、「まめっこ倶楽部」では8種類の豆を作っています。会員の皆さんには収穫して1年以内の豆を7種類お届けしていますが、もう一つ地元在来の「くりまめ」は、作りづらく生産量が少ないため限定品となっています。またパッケージを変えて販売しているのがキレイマメ。その名の通り光沢がありとてもきれいな「光黒大豆」という品種の黒豆で煮物に最適な豆。武蔵野美術大学の学生とのコラボで生まれ、豆の町・本別を代表する商品です。実はこの豆は「まめっこ倶楽部」の黒豆として出荷していただいている生産者もいるので、光沢ある綺麗な豆が当たったら会員の方もラッキーですね。

 

まめっこ倶楽部の豆の美味しさの理由

 

 今年の夏、北海道の旅で私(金谷)が「まめっこ倶楽部」の皆さんにお会いしたのは8月16日のことでした。現在、高齢化などでメンバーは7名に減りましたが、この日は代表の前佛さんを始め5人の方々にお会いしました。本別町の道の駅でお会いした後、市街地にある空き家に案内していただきました。ここは生産者の皆さんが自分たちの豆を持ち寄り選別し、梱包・出荷する作業所となっています。選別の様子を見せていただけませんかと私が声をかけると、三井さんと斉藤さんが机の上に豆を広げ手馴れた感じで虫食いや割れた豆、しわが寄っている不良豆を選別する様子を見せていただきました。通常は機械で選別しますが、「まめっこ倶楽部」の出荷では手間と時間がかかる手選別を実施します。機械選別だと皮がむけたものが混入する場合もあり、黒豆などは煮ると白くなってしまうそうです。 「まめっこ倶楽部」の豆のもう一つの特色は他の人の豆を混ぜずに、一つひとつの袋には生産者の名前入りのシールを張って出荷に責任を持つことです。生産者は1つの圃場では1つの品種を作付けし、農家ごとの品質管理を徹底するために1名の生産者が生産する豆の品種は2〜3種類と限定しています。豆は畑の生育条件が違うと吸水量などが違ってきて食味に影響します。また、豆の収穫時期が早いと煮たときにシワが寄って美味しく仕上がりません。畑で適期を見ながら収穫できるために、この方法によって完熟した豆を消費者に届けることができます。

 

「まめっこ倶楽部」の畑の様子

 

 人口約8700人の本別町では農家戸数は約400戸、その半数の方が耕地面積20ha以上の大規模な耕地面積を持つ農家です。ここから一番近い熊谷さんの畑に案内していただきくと、一面豆畑に囲まれた一角に熊谷さんの自宅がありました。小豆、いんげん、大豆、よくみるといろいろな豆が区画ごとに植えられています。大規模な北海道の畑作地帯の中でこじんまりと作っていた印象がするのは、「まめっこ倶楽部」の出荷用の圃場として分けられていたためでしょうか。まだ、夏の名残がするこの日は小豆やいんげん豆などの花が咲いていました。秋から豆の収穫が始まり金時豆が9月上旬、続いて10月上旬に小豆・大納言小豆が、10月末ごろには大豆類、11月上旬に花豆と次々に実りの季節を迎えます。豆は収穫後脱穀され豆殻や葉や小石など不純物が除去され、水分を調節した後選別にかけられ製品となります。 畑を見学させていただくとあぜや畑の中には草も生えていて、除草剤に依存せず草取りをしながら手間を掛けて栽培している様子がわかりました。熊谷さんは一般の豆農家に比べて除草剤は半分に減らしているそうです。「まめっこ倶楽部」の生産者の皆さんは農薬は予防的に使用せず防除が必要な場合に使用します。病気の発生を防ぐには土作りも大切。化学肥料の使用を抑え有機質肥料を積極的に入れ、輪作体系を守っています。豆を収穫した後は、連作せずに4年の間じゃがいもやビート・小麦などを作付けします。 こうして大変な手間を掛けて一つの作付けされた豆が製品となり出荷されます。本別町では、町ぐるみで豆を通した取り組みが進められ、自分たちで作った豆から豆腐やみそ・羊羹を製造する「本別発 豆ではりきる母さんの会」もあります。また、帰りに立ち寄ったお菓子店「岡女堂」は十勝産の豆を使った13種類の甘納豆などいろいろなお菓子を販売。その品揃えの豊富さと豆菓子の多様さには驚かされました。町民一人ひとりが豆を通して消費者の人たちと繋がりたい、そんな思いをいっぱい受け止めることが出来る町でした。

<取材:2011.8.16>

置田 敏政・愛子さん

自然農法の草分け置田敏雄さんの後を継いだご夫妻と

土作りへの思い

生産者の置田愛子さん

秋に収穫された里芋は貯蔵され春まで出荷されます

切干大根と製造風景

先代、置田敏雄さんの農法

 

 置田家といえば、先代の敏雄さんは富山県はもとより全国でもその名が知られています。農薬や化学肥料を与えず動物性肥料も使わずワラや落ち葉、枯れ草など周りにあるものを循環させて堆肥にする農法を続けてきたからです。有機認証制度ができた最近では自然農法という言葉が使われることはあまりありませんが、今でも画期的なこの農法を60年以上前から敏雄さんが続けてきたました。米作りでは田んぼにネットを張り、その中にアイガモを飼育して除草する、全国のアイガモ農法の先駆者でもありました。 2001年に敏雄さんが亡くなられ、現在は息子さん夫婦が農業の中心となりました。夫の敏政さんは田んぼや機械仕事などの段取り、奥さんの愛子さんは畑仕事やこまごました作業をそれぞれ分担しています。今でもお父さんの敏雄さんの精神的な支えは大きく、2町歩の田んぼと約7反の畑は農薬や化学肥料を使わず作物を育てています。

 

土作りへの情熱と農家の加工

 

 置田家を訪ねて驚かされるのは、約60坪くらいの広さの大きな自前の堆肥場を持っていることです。屋根がありコンクリートが打たれた倉庫の中では、堆肥切り返しのためのホイールローダーが入っており、発酵の度合いに応じて何段階かに堆肥が仕分けられています。最初の堆肥には臭いもありましたが、次の段階に行くと湯気が上がるほど高温に発酵し、最後には臭いも消え黒々と土のような状態になっていました。 置田さんの農場で使われるのは主に2つの堆肥です。1つはもみがら堆肥で、もみ殻・ぬか・おからを発酵させたものです。作物の根が浅い菜っ葉などを栽培するときに根元を覆うようにして使うと雑草も生えないし、徐々に効いてきて効果が高いそうです。もう一つは大豆堆肥。これは規格外の大豆とぬかを混ぜて発酵させたもので、チッソ分が多く良く効くそうです。 みどり共同購入会に出荷される野菜は、夏場はトマト・きゅうり。秋〜冬場になると白菜や大根・さつま芋・里芋などがあります。特に年を越したさつま芋はねっとりして絶品です。さつま芋や里芋は貯蔵をして寒い富山の冬でも傷まないように工夫しています。また、当会の要望によってみその仕込み量を増やしていただき、年間を通して北陸伝伝統の麹味噌をお届けできるようになりました。置田さんの自作の大豆を使用し、地元の麹屋さんで一年分加工してもらい、代々伝わる蔵の中で熟成しています。厳寒期を過ぎると切り干し大根も出荷されます。規格外や余った大根を愛子さんが手作業で皮をむき、千切りにして天日で干したものです。置田家ではこんな風に昔ながらの南砺の農家の知恵や暮らしが息づいています。

 

置田さんのお米とこれからの課題

 

 置田さんの田んぼは5年前に基盤整備が行われ、機械が入りやすくなった反面、区画整理して土壌が変わってしまいました。生産者の高齢化と後継者不足の末に地域で選択したことだったとはいえ、長年改良してきた土壌が変わってしまったことは残念なことでした。「今まではおじいちゃんが作った理論と土作りによって農家をやってきたが、これからはさらに自分たちで微生物のこと、作物の味や健康面までいろいろ考えてやっていかないといけない」と愛子さんは明るく話をされました。置田家では世代交代したことによって、新たな模索が始まっています。土壌を改良するためにカニ殻やカキ殻などカルシウムの補給も考えていきたいとのことでした。 置田さんのお米は精米施設を持っていないので玄米10kgの企画でしかお届けできませんが(注:現在は白米・五分搗き・玄米を玄米換算5kgで企画しています)、甘味が強いお米で南砺の土地の豊かさを感じさせます。最近では、コイン精米機や家庭用の精米機もありますから、玄米食以外の方でもぜひ、ご利用いただければと思います。

<取材:2010.2.28>

野菜・果物
樋口果樹園 樋口英夫さん

農薬を減らしたなし栽培のために

独自の農法をすすめる樋口さん 

樋口果樹園のご家族の皆さん

樋口英雄さん

樋口さんが独自に使用するサンラテール[左]と鮭のペレット

新潟の河川敷にある樋口果樹園

 

 刃物で有名な新潟県三条市の郊外にある果物専業農家が樋口農園です。この地域は日本一の大河・信濃川によって形成された沖積平野が広がり、肥沃な穀倉地帯では稲作の他、新潟県下でも有数の果樹栽培地域となっています。国道8号線沿いの代官島で直売所を出すのが4代目となる樋口英雄・順子さんご夫妻です。お二人は息子さん夫婦と2世代で2haの果樹栽培をしています。 面積の2/3は梨で、残りはももとぶどうを栽培しています。みどり共同購入会の会員の皆さんには8月から12月にかけて次のような梨を種類を変えてお届けしています。 8月下旬〜「幸水」 9月中旬〜「豊水」「二十世紀」 10月中旬〜「南水」「新高」 11月中旬〜「新興」 11月下旬〜「ル・レクチェ」

 

樋口果樹園の農法の特色

 

 樋口英雄さんはこの地で、糖度が高く農薬の使用量を減らした独自の農法を行ってきました。一つは土壌の保全や土作りを推進するNPO法人「自然生の会」がすすめる有機物と土壌改良剤を一緒に堆積発酵させたミラクルソイルを多量に購入し土壌の改良を進め、現在はサン・ラ・テールと呼ばれる土壌改良剤を入れています。これは山形県高畠町二井宿から産出される天然二次粘土鉱物で土の保水力を高めチッソ分の過剰な吸収を防ぎ、果樹がじっくりと品質の高い生育を助ける土壌作りをします。また、肥料として信濃川に遡上し採卵した鮭をペレットにした肥料などを加えてミネラル分などを補います。その他、籾殻や米ぬかなど有機資材を配合し、じっくり2年間寝かせた堆肥を使用します。そのため化学肥料は少量しか使いません。 乳酸菌のもつ抗菌作用を利用した「乳酸菌農薬」などで病原細菌を抑えたり、毛虫の卵を孵化させず化学農薬の使用を抑えています。農薬の散布は慣行栽培の半分程度年間11〜13回に抑え、園内では除草剤は使用しません。梨の枝なども冬場に剪定して粉砕機にかけ再び土に還します。

 

新潟特産の洋梨「ル・レクチェ」

 

 洋梨ではラ・フランスが有名ですが、黄色(ブライトイエロー)の洋梨「ル・レクチェ」は見た目、形、糖度の高さ、珍しさから贈答品として高値で取引されている洋梨です。10月ウグイス色の状態の果実を収穫し40日位涼しい場所(常温)で追熟すると、鮮やかなブライトイエローになり食べ頃となります。特徴はみずみずしさと豊潤な香りと柔らかさ、甘さ。樋口農園の主力の梨で、全体の1/7、3反位の面積で栽培されています。春に受粉させ、6月に袋を掛け、夏には不要な枝を落とします。収穫は10月半ばから。みどり共同購入会では周年を通して利用していただいているので価格は割安になっています。 みどり共同購入会では常温で梨を配達していますが、これは樋口さんのアドバイスによるものです。梨は長く冷蔵庫に入れておくと冷えすぎて味が落ちるそうです。食べる30分くらい前に冷蔵庫に入れておくといちばん美味しい状態で食べていただくことができるそうなので、おためし下さい。

<取材:2009.7.19>

小坂 隆さん

農家の思いが生かせる自由な産直の道を選んだ小坂さん

プルーンの樹と生産者・小坂さん

露地栽培のぶどうはまだ色がついていません

プラムの臭いにカブトムシが寄ってきていました

果物をはじめ、小坂さんとは多品目のおつきあいがあります

 

 りんご・巨峰・さくらんぼ・洋梨・ブルーベリー・プラムなどの果物の生産者が、長野県山ノ内町の小坂 隆さんです。安全な食を求める消費者の中では、減農薬のおいしいりんごの生産者として知られ、長野県でりんごや巨峰栽培では「エコ・ファーマー」の農家として認定されています。果物だけでなくグリーンアスパラなどの野菜から山菜、自生のきのこ・くるみなど年間を通してたくさんの農産物を会員の皆さんにお届けしています。当会の提携で最も古い生産者の方のお一人です。2007年7月上旬に私(金谷)が小坂さんのところを訪れた産地レポートです。 小坂さんの住む志賀高原は富山市から2時間余り。昔は8時間もかかったそうですが、上信越自動車道が開通して一気に時間が短縮されました。信州中野インターで降りると、一帯は果樹栽培の畑が広がっていました。小坂さんは親の代から継いだ2代目の果樹農家です。面積を徐々に増やし、ぶどう畑1.2反、りんご畑は3反などの耕地面積をもっています。ふだんは両親と奥さんと4人で作業を行っていますが、収穫・剪定など忙しいシーズンになると人を頼んでやりくりしています。

 

果樹栽培の圃場を見学しました

 

 小坂さんにまず案内されたのが桃畑。青空の中でピンク色の果実がよく目立ちます。地面には色づけ用に反射シートを敷いていました。シートの効果で色ムラのない桃が育つそうです。ハウス栽培の巨峰はこの頃から黒く色づいていましたが、2月頃に重油を炊いて温度を上げる必要があり、毎年ビニールを新しくしなければならないので採算が取れず、面積を減らしているそうです。露地栽培の巨峰は7月ではまだ緑色で、房も小さなままです。出荷まで1ヶ月間あり小さな粒がついているものは摘果して残った粒を大きくして育てるそうです。その後、色づいた果実を保護するために一房ずつ袋を掛けていきます。 りんご畑では、「津軽」りんごが大人のこぶし程度の大きさに育っていました。これから1ヶ月間で玉伸びして色づき、大きくなるそうです。よく見るとりんごやぶどうの立ち枯れの木もあります。果実にとって恐ろしい病気のフラン病で、いったん感染すると止めることができないので周りの感染を防ぐために枝を切り、場合によっては木そのものを切るしかありません。完熟したプラムの実にはカブト虫やカナブンがたくさん集まっていて、私は子どもたちへ思わぬお土産いただくことになりました。畑を見学してしめじの生産者・池田さんの施設を案内していただいた後、小坂さんからお話をお聞きました。

 

生産者・小坂さんの思い

 

 ここ志賀高原中野町周辺は、古くから都会に向けて産直が始まった地域でした。当時、若手農家の中心だった小坂さんは関西の大手生協とのパイプ作りをしてきました。しかし22歳の頃に、農協を経由し生協に出荷する方法を止め、個人で出荷先を開拓して行ったそうです。直接消費者グループを訪れ、現品を持ち込み販売に奔走してきました。今から30年近く前のことです。小坂さんは、自然の営みで生産される農業の分野で出荷量や価格設定が流通の都合だけで決められ、“生協に遊ばれている”と反発を感じて、農家個人の思いが生かせる方法を模索してきた結果なのでした。 私は首都圏にある生協に勤めていた時期と重なり、小坂さんのそうした思いの一端が理解できます。生協も含め志ある生産者が自由闊達に消費者との提携を広げていった時代が過ぎ、今の産直の世界は生産者と消費者の提携が安定した分だけ「管理」された産直になっている気がします。 小坂さんは個人の消費者とのお付き合いも大切にしています。そのため、果実も手間がかかるにも関わらずいくつもの品種を植え、出荷時期を長くしていつも何種類もの果実を収穫して喜んでもらえるようにしています。野菜作りはおばあちゃんの仕事です。野菜と一緒に果物を送ることもよくあるそうです。このような小坂さんなので、なにより消費者と“顔を見える関係”を大切にしています。みどり共同購入会の会員の方からお便りが来たり、直接小坂さん宅に来て購入された方もいてそれが励みになっているそうです。 小坂さんは消費者グループには“自由個性集団りんごの木”という名前で農産物を届けています。当会の生産者には個性の強い方が多いと感じます。そうした個性と生産者の思いを生かしながら、お互いが共存していける関係を続けていきたいと思います。

<取材:2007.7.27>

天野グループ

温暖な愛知県安城市から出荷していただく

3軒の天野姓の生産者グループの皆さん

天野グループリーダーの天野道子さんとご主人

天野グループの天野ナエ子さん

天野たき子さん

冬でも野菜が生育する温暖な地域です

 

 天野グループは愛知県安城市にあります。大都市圏の名古屋周辺地域にあり、日本のデンマークとも呼ばれる肥沃な地域で昔から野菜づくりが盛んなところです。かつては氾濫を繰り返し豊かな土壌を作ってきた矢作川河口周辺には、「天野」の姓を名乗っている方がたくさんいます。 「天野グループ」の名称も3軒とも姓が天野さんなのでこの名がつきました。天野道子さんをリーダーに、ナエコさん、たき子さんのおばあちゃん達が作っています。畑の面積は合わせて約9反。皆さん30年近くのキャリアをもつベテランぞろいで、有機肥料・微生物資材・ボカシなど充分な土作りをして、農薬を使用しない野菜栽培を行っています。栽培される野菜は市場には出さずに産直で販売しています。夏場は畑を休ませシートをかぶせて、高温にして土壌消毒を行い線虫などの害虫の駆除、雑菌の殺菌や雑草の種を殺します。 夏場は畑を休ませるため、みどり共同購入会の出荷は11月から翌年の5月までとなります。畑は1年間に4〜5回出荷できる葉物野菜を中心に作付けしています。品目は小松菜・ほうれん草・小かぶ・大根・レタス・キャベツ・ねぎなどの軟弱野菜が中心です。冬場でも1月に播種すると雨よけシートをかぶせるだけで3月には収穫できます。雪の影響を受ける北陸から見るとうらやましい地域です。

 

生産者からのメッセージ

 

 天野グループ代表の天野道子からのメッセージを紹介させていただきます。 「私たちが天野グループとして発足してはや20数年になります。きっかけは微生物農法の講演会を聞きに行ってからです。安全でおいしく栄養価の高い野菜作りがしたいと常々思っていた時でした。メンバーは天野道子、天野たき子、天野ナエ子の女性ばかり3人です。天野ばかりですので『天野グループ』としました。島本微生物農法、EM農法等、勉強してやってきましたが、2005年からセイショー式農法を始めました。原料は食べてもよいものばかりです。トウモロコシ、発酵大豆、卵殻、ゴマ粕、大豆粕等です。今までの微生物農法は4種類の菌がありましたが、セイショー農法は6種類の菌があります。この菌の働きで土がとても良くなり、安全でおいしい栄養価の高い野菜のレベルが上がりました。これ以上の農法はないと思っていますが、これからも勉強しながら野菜作りに励んでいきたいと思っています」

<取材:2008.1.4>

 

パモジャ農園 和田治彦・百合子さん

年間10種類以上のかんきつを届けていただくパモジャ農園は

こうして生まれました

和田さんご夫妻

収穫後、自宅裏の蔵に保管しています

パモジャ農園・みかんの収穫

生産者 和田さんの紹介

 

 愛媛県松山市内から車で10分ほどの瀬戸内海に近い丘陵地帯にあるのが「パモジャ農園」です。生産者の和田さんとみどり共同購入会とは古くからのお付き合いがあります。和田さんは20代の頃、アメリカのアリゾナ州で2年間、かんきつ栽培の研修を積んできました。帰国後は青年海外協力隊としてアフリカのタンザニアに赴き、現地の人にかんきつ栽培を指導してきた経験があります。帰国後、在来農法を行っていたそうですが、化学肥料や農薬を多投するやり方に疑問を持ち「パモジャ農園」の立ち上げと同時に、自然環境に配慮した農法をめざし、在来農法と縁を切り農薬不使用、除草剤無散布の栽培方法を続けてきました。当初、現実はそんなに甘いものではなく、夏草が繁茂するためカミキリムシやダニ等の害虫の被害に遭い、相当苦労されたそうです。悪戦苦闘を繰り返しながら継続していく中で自然環境の変化と天敵などによって、次第に園内の害虫の被害も減少してきました。

 

「パモジャ農園」の名前の由来

 

 パモジャ(pamoja)の意味は、和田治彦さんが青年海外協力隊としてタンザニアのキりマンジャロの麓の町で過ごした時に使われていた東アフリカの共通語スワヒリ語の言葉です。「一緒に」「共に」という意味があります。「パモジャ農園」では、消費者と生産者が共に仲良く手をとりあう願いをこめて名付けられました。 和田さんいわく「20数年経ち自然と対話しつつ行ってきていますが、台風、干魃、長雨、地球温暖化、寒波など“大自然の強さと気まぐれ”に翻弄されつつ、未だに試行錯誤を繰り返しているのが現実です」とのこと。今では安全で美味しいかんきつは多くの会員の人が楽しみにしており、みどり共同購入会のおすすめの農産物の一つです。

 

「パモジャ農園」のかんきつ栽培について

 

 「パモジャ農園」では現在、ポンカン・福原オレンジ・キウイフルーツについては周年を通して農薬を使用していません。その他のかんきつは病害虫の予防のため、環境に比較的低毒性の有機許容農薬のマシン油と水和イオウを冬と6月下旬に年2回散布しています。またその他のかんきつも農薬不使用で栽培する試みを毎年続け、時期によってレモンや伊予かんなど無散布のものを会員の皆さんにお届けしています。かんきつは実を食べるだけでなく皮もピールなどに美味しく利用でき、レモンなどは皮ごと利用することが多いので、パモジャ農園のものはとても安心できます。 園内では除草剤を使わず、手刈りで草を取り有機物として土に還元しています。肥料は油かすや米ぬかなどの有機物を主体に有機物肥料で不足するリン酸・カリの化学肥料を2割ほど混ぜた有機配合を使用します。土壌改良剤として、豚ぷんとおがくず・EM菌を配合して作った堆肥や、友人の造園屋さんからの樹木の剪定屑をもらって腐植土なども使用しています。

パモジャ農園のかんきつの出荷は次のようになっています。

1〜3月 ポンカン 2〜3月

伊予かん 2〜3月 八朔

2〜4月 ネーブル

3〜4月 デコポン

3〜7月 甘夏

5〜6月 福原オレンジ

7〜8月 バレンシアオレンジ

9〜1月 温州みかん

10〜翌年6月 レモン

11〜翌年4月 キウイフルーツ

 年間を通してかんきつが出荷され、パモジャ農園のバレンシアオレンジは外国産に負けない美味しさ。日本のみかん農家はオレンジの輸入自由化によって様々な厳しい局面を迎えていますが、一方、和田さんのように美味しく安全なかんきつを栽培し消費者の支持を集め、自立した農家も育っているのです。

<取材:2011年2月>

パモジャ農園 和田治彦・百合子さん その2

年間新しい生産者の輪を広げたパモジャ農園

和田さんご夫妻

収穫後、自宅裏の蔵に保管しています

パモジャ農園・みかんの収穫

5年ぶりに和田ご夫妻と再会しました

 

 2010年12月、愛媛県パモジャ農園を再訪しました。私(金谷)にとって5年ぶりとなりますが、前回は夏休みの子供連れのたびの途中だったのでじっくりお話しすることができませんでした。今回は前日17日に松山市に入り代表の和田治彦さんと遅くまでお酒を酌み交わすことになりました。 パモジャ農園は、みどり共同購入会など産直グループや個人に直接出荷していますが、長く和田さんご夫妻だけでやってきました。しかし、注文量も増え将来のことを考えてパモジャ農園の農法で協力していただける方を募った結果、生産農家は新たに4軒となりグループ化をすすめているとのことでした。 翌18日に和田さんの自宅に向かいました。自宅はJR松山駅の次の駅、三津浜駅から車で10分ほど。駅から住宅街を抜けた、市街地の外れに畑があります。和田さんのお話では、戦後の農地解放で土地の一部を失うまで、昔はこの辺り一帯が和田家の土地だったそうです。以前は麓の住宅地もみかん畑が広がっていましたが、オレンジの輸入自由化以降は離農する人たちが増え、畑が売られ家が立ち並ぶようになりました。山手にはみかん畑が広がっていますが、残っているいるみかんや伊予柑の木も放置されたままのものも多いそうです。

 

品種の移り変わりが激しいかんきつ栽培

 

 今回見学させていただいた畑は、和田家から少し離れた、メンバーの一人五領田(ごりょうだ)さんの畑です。住宅地を過ぎるとすぐに急坂となり、四輪駆動の軽トラックがようやく上っていける山道をしばらく進むと畑が広がっていました。車が通れる道が尾根まで続いていて、斜面もなだらかとなります。五領田さんは不在でしたが、和田さんが自分の畑のように中を案内してくれます。畑に伊予柑、はるみ、河内晩柑、ネーブル、デコポン、レモン、みかんの晩生種などいろいろなかんきつが植えられていました。 ここ平田町周辺は宮内伊予柑の発祥の地といわれ、宮内伊予柑の先祖に当たる普通伊予柑も残っていました。普通伊予柑は厚い皮でごつい感じがしていますが、濃厚な野性味ある味でした。みかんの後に続くかんきつとしては愛媛県では伊予柑が定番だったようですが、最近伊予柑の消費が減って、各産地では新しい品種を模索しているそうです。驚いたのはグリープフルーツの木まで植えられていたことでした。チャレンジ精神旺盛な和田さんが苗を分けてもらい試しに植えたそうです。国内の出荷は6月頃とのことでしたが、玉は充分大きくなって食べることもできました。 かんきつ栽培では品種を更新するとき一般に高接(たかつぎ)を行います。苗から育てると時間がかかるのですが、高接をすると3年くらいで収穫できます。そのため高接したグレープフルーツの木の枝から、伊予柑の実が成ったりします。植えられたかんきつは、それぞれバラバラに接木されるので、素人にはどの木にどんな種類のものが植わっているか、外見が似ているのでなかなか見分けがつきません。生産者は少しの違いを見分けて収穫適期も考えながら、分散した木からかんきつを収穫するのです。

 

かんきつ栽培の苦労

 

 そのうち五領田さんが畑にやってきました。五領田さんは最近まで慣行農法をやってきましたが、みかんやかんきつの価格が下がる一方なのに、農薬など資材費がかかる今の農協の営農指導のあり方に疑問を感じ、メンバーに入ったそうです。この畑のすぐ裏手は海に面しており、日当たりがよく、温暖な気候なのでかんきつ栽培に適した場所です。最近では農家の数が減って雑木や古畳など堆肥となる原料は確保しやすくなったため、化学肥料をやめてこうした資材を畑に投入しているそうです。完熟した堆肥を入れ続けると実は甘くなりコクも出てきます。 かんきつは隔年で表年と裏年があり収穫量が違う上、摘果しないと樹が成り疲れを起こして翌年の収量が激減します。摘果は、平均してた玉伸びした良い果実を収穫するのに欠かせない作業です。今シーズンは裏年の上猛暑だったので、みかんなどが品不足となり年末に高騰したのは会員の皆さんご存知のとおりです。 和田さんのお話では、消費者が見栄えを気にしなければかんきつは農薬を使わなくても充分に栽培は可能とのことでした。ただ、生産者によって一番困るのはゴマダラカミキリの幼虫のてっぽう虫の食害です。成虫が樹木の下の部分に産卵し、卵がかえると幼虫が2〜3年根っこの部分で生活し木を枯らしてしまいます。食害が広がると木が死んでしまうので、多くのかんきつ農家は根っこの部分に薬を塗り続け、虫が寄るのを防止します。パモジャ農園ではそれでも農薬を使用しない試みを続け福原オレンジは全て、ポンカン・レモンについては農薬を使用しない畑を広げチャレンジを続けています。 パモジャの言葉の由来は和田治彦さんが青年時代を過ごしたタンザニアの母国スワヒリ語で「一緒に」「共に」という言葉です。共同購入会で最も古い生産者の一人、和田さんがその名前のように仲間を増やして産直の輪を広げてきたことは、私にとっても嬉しい出来事でした。

<取材:2012.12.18>

青木果樹園 青木靖宏さん

毎年はずれがなく大好評の青木さんのモモ、

最近取り組む機会が減ったのは残念です

生産者青木さんのご家族

桃畑

美味しい桃を食べたい方は

 

 店頭に並ぶ果物の味が落ちてきているのは、化学肥料に頼ることで土作りがきちんと行われていないこと。そして、生産地が消費地から離れ消費者の手に届くまでに時間が経っているために、完熟の状態での出荷が難しくなったことなどがあります。桃を購入されて外見はみずみずしくておいしそうなのにちっとも甘くない、中はガリガリで固かったなどの経験はないでしょうか。そんな中で、毎年みどり共同購入会の会員の皆さんに人気が高いのが青木さんの桃です。お届けする桃のどれも糖度が高くジューシーで“はずれ”がないことがその理由です。 青木さんは出荷前に選別して、3割の桃は売り物にしません。外見が良くても甘味がのっていなかったり、病害虫で中がやられていたりするためです。桃はりんごと違い収穫が農繁期にあたるので、ジュースなどの加工に回すことができず、もったいないのですが処分します。毎年購入する消費者が決まっているために一回でも手を抜くことができません。 青木さんから会員の皆さんにお届けする桃は、8月中旬とお盆期間中のギフト宅配の「白鳳」、9月上旬の「昭和白鳳」です。青木さんの桃の栽培面積は以前5反ほどありましたが、土地の疲弊や樹の更新の難しさから約3反半の面積で栽培しています。

 

青木さんの桃の栽培

 

 果物の中でも桃の栽培にはたくさんの農薬が使われます。桃の病気には黒星病・灰星病・腐りが出るものがあり、カメムシ・ハナグリガ・カンクイムシ・ダニ・カイガラムシ・アブラムシなどの害虫によって被害を受けます。慣行栽培では年間25回程度農薬を使用します。岐阜県の「人と環境にやさしい農業」とされるクリーン農業でも18回、青木さんはさらに農薬を減らし年間12〜13回の農薬使用に抑えています。 肥料は有機主体で化学肥料を少々補助的に使っています。青木さんは有機質肥料だけでなく、土壌改良剤としてサン・ラ・テールを使用します。サン・ラ・テールは「ねんどの化粧品」にも使われるモンモリロナイトを含む天然の粘土質鉱物です。毎年サン・ラ・テールを使用することで病害虫に強くなり、味や保存性が向上しています。青木さんは手間がかかっても除草剤を使用せず、除草を続けています。また均一に着色するためと病害虫の侵入を防ぎ農薬の使用を減らすために、果実の肥大時期に1個ずつ袋をかけます。収穫の1週間前には袋をはずします。こうした手間をかけることによってより安全で美味しい桃を会員の皆さんへお届けしています。

 

りんご栽培と青木さんから一言

 

 その他、青木さんとはふじりんごやりんごジュースの取り組みも行っています。りんごの栽培もまたフェロモントラップ(臭いのする性誘引フェロモンを使って誘引された害虫を捕獲して退治する方法)などを使って、農薬の使用回数を抑え年間8回としています。除草剤は使用していません。 生産者の青木靖宏(やすひろ)さんからのメッセージをお届けします。(注: 2008年度) 「青木果樹園です。今年も桃の季節が近づいて来ました。3月の剪定作業から始まり3〜4月と摘雷、5月花摘み草刈り、6月摘果、草刈りと進み、7月は初日から袋掛け作業をしています。5月始め花が咲いてから天候にも恵まれ、まずまずのでき具合です。時々夏日のような高温は果実の日持ちに影響しますので心配です。でも桃の甘さは何と言っても8月の天気が勝負です。あと一息頑張ります 又宜しくお願いします」<取材:2008.9.2> 注:青木さんのももの出荷量は年々減っているため、現在はシーズン1〜2回宅配による直接配達を行っています。

(株) 地域法人 無茶々園

3人の若者のみかん作りが地域を変えた

「無茶々園」の取り組み 

無茶々園創設者の片山さんの奥さん・恵子さん

段々畑の急斜面が無茶々園の柑橘畑です

海の生産者、佐藤さんご一家

遠かった無茶々園への道のり

 

 最近さまざまな提携品目が増えた生産者に愛媛県の(株)地域法人・無茶々園があります。提携品目は果物や野菜、蜂蜜、しらすちりめんやひじきの海産物など多岐に渡っています。今シーズンにスタートしたのが「無茶々園の柑橘セット」。当会の会員の皆さんのために、無茶々園の皆さんに特別にセットしていただけることになりました。そんな産地を一度お伺いしたいと私(金谷)が四国に向け出発したのは12月17日のことでした。 電車とバスを乗り継ぎ約12時間かけて高知県の四万十市に到着。翌朝に加持養鰻場に寄って、車で3時間かかけてようやく到着。宇和島の先、西予市明浜町にある無茶々園は四国の中でも交通不便なところでした。事務所では細島専務と担当者の筒井さんに出迎えていただき、細島さんからまずお話をお聞きしました。

 

無茶々園の歴史と現状

 

 1972年に3軒の生産者から始まった無茶々園は、現在130軒を超える国内有数の産直グループです。農薬は、使用しないか最低限にして化学肥料や除草剤を使用しない有機農法を推進しており、全ての生産者の栽培履歴はホームページで公開しているそうです。みかんから始まった取り組みも、現在は農産加工品だけでなく基幹産業の一つ真珠など海産物の取り組みに広がっています。創設者の一人片山元治さんは“農業はお金儲けのためにやるのではなく、自分たちの財産である自然を守るために行わなければならない、地域全体が豊かになるようなやり方をしなければならない”と主張し、地域ぐるみの取り組みを進めてきました。 細島さんは「無茶々園の農家の皆さんは楽しく、誇りをもってやっていらっしゃる方が多い。」と言われました。その結果、故郷に戻り後継者として育っている人たちも増え、明浜町では最近青年団も復活したそうです。細島さん自身も首都圏の大手宅配組織からここに転職され、事務局のメンバーの7割の人は地元以外の出身者となっています。

 

急斜面の石垣の中でのかんきつ栽培

 

 筒井さんに案内された私は元治さんの奥さんの片山恵子さんにお会いしました。ここ狩江地区は明浜町でも50軒の無茶々園の農家が集中している地域です。片山さんからはさまざまな地域の軋轢を克服されて今に至ったお話を聞きしました。12年前には南予用水の敷設工事では潅水設備と共に農薬をスプリンクーラーで共同防除する計画があり、地域を二分する対立となり裁判まで起こりました。スプリンクラーを使用すると自分たちのみかん園にも自動的に散布されるので、無茶々園の農家の皆さんは防除を止めてもらうため、なんと一般の農家の園に自分たちが人力で農薬を散布して計画を中止させたそうです。 こうした行動の中で、徐々に無茶々園のやり方が地域で受け入れられ、今では本浦地区の約7割は無茶々園のみかん園になっています。片山さんのみかん園に案内していただくと、そこには能登半島輪島市の「千枚田」を想像させる素晴らしい風景が広がっていました。山の頂から海岸線まで何十段にもわたって段々畑が広がり、その畑には長い年月を重ねて作られた石垣が組まれていました。急斜面の畑の中は農道を作れないのでモノレールを張り巡らせていました。農作業は登山道よりも狭い石段を上り下りして行います。この風景を見たとき、私は無茶々園の皆さんが大切に守り続けてきたものを感じることが出来ました。 私は片山さんに「今の農業を続けてきて良かったことは何ですか。」と質問すると「消費者の皆さんが見えることです。生産物などに入れたハガキにいろいろなメッセージが書いてあり教えられることも多いのです。また、他所からいろいろな方がやってきて、村に活気が生まれています。」という答えが返ってきました。

 

「祇園丸」網元の佐藤さんの思い

 

 日が暮れる中、急いで海の生産者である「祇園丸」網元の佐藤吉彦さんにお会いしました。目の前にある法華津湾は波が穏やかな漁場で、祖先が魚付き保安林を残してくれたこともあり今でも質の良いちりめんじゃこが水揚げされます。祇園丸では家族でちりめんじゃこを漁獲から加工まで一貫生産しています。天日で干したちりめんは漂白剤などを使用せず、関西地方で人気のある乾燥度合いの強い上干(じょうかん)の状態で製品にします。 ふぐの養殖には寄生虫を殺すためにホルマリンの投与が一般的になっていましたが、宇和海で養殖している真珠貝の死亡が続いたため、全国に先駆けて愛媛県では10年以上前にホルマリン使用禁止条例が施行されました。漁協では合成洗剤を使用せず粉石けんの推進に取り組んでいます。そうした活動の中心人物の一人が佐藤さんです。佐藤さんは現在、漁場を改善するためわかめの種糸を植えつけ茎藻類を育てる取り組みも行っています。「都会の子供を呼んで、自分たちの守ってきたきれいな海を見て欲しい、地元の子供たちと交流する機会を作りたい。」そう話す佐藤さんの言葉からも自然を守る強い思いと故郷への愛着を感じることができました。 志があり、個性的で面白い人がいっぱいいそうな無茶々園。次回に来るときにはじっくり腰をすえてこうした方々と産直の未来について語りたい、そんな名残惜しい気持ちを持って私はここを発ちました。

<取材:2010.12.17>

とうふ屋孫兵衛 藤田良穂・明美さん

高岡・戸出の地で五代目となる藤田さんご夫妻の

豆腐作りの一日

☆豆腐のにがりの生産者・能登塩田の角花さん(左)と藤田さん

職人の技・能登塩田のにがりを打ちます

奥さんの明美さんは揚げもの担当です

かつての商店街の一角にあるお店

 

 「とうふ屋孫兵衛」のお店は、高岡市戸出の国道156号線を少し入った通りにあります。この通りは昭和50年頃までは八百屋さん・風呂屋さん・魚屋さんなどいろいろなお店でにぎわっていたそうです。戸出地区は高岡市でも庄川の河川敷にあたり、地下から豊富にわき出る伏流水の恵みを受けたところです。孫兵衛さんのお店がある戸出地区は隣の中田地区を合わせて15、6軒のお豆腐屋さんがあったそうですが残ったのはたった1軒、孫兵衛さんだけになりました。 時代の変遷をもっとも大きく受けた食品製造現場の一つが豆腐屋さんでした。近所の豆腐屋さんは激減したのに、スーパーの店頭から豆腐がなくならないのは、少数の大手豆腐メーカーが大量生産するようになったからです。豆腐を水と一緒に容器ごと固めた水ぶくれの充填豆腐、添加物の力でどんなに薄い豆乳でも固めてしまうプリンのような豆腐……。これらの豆腐は目玉商品として格安の値段で販売されています。しかし、豆腐と呼ばれていてもその中身は以前と異なり、工業製品のような商品へと変わっていきました。この地で豆腐屋を始めて五代目になるのが藤田良穂さん。その豆腐作りは気負いもなく自然体で、昔と同じやり方を続けておられます。

 

藤田さんの豆腐づくり

 

 豆腐作りは前日から始まります。翌日作る豆腐の量に合わせて大豆を一晩水につけます。柔らかくなった大豆は翌朝、細かく砕いて水を加え豆の汁「ご」と呼ばれるものを作ります。「ご」は100度を超える蒸気にあてられ加熱されます。熱を加えられたものは絞り器に自動的に移されて豆乳とおからに分けられます。濾された豆乳は専用の容器に移され温度が下がった頃、ニガリで固めます。その作業は“ニガリを打つ”と呼ばれています。ニガリは石川県珠洲市・能登塩田の自然海塩作りの副産物として採れるものです。国産大豆を使う豆腐屋さんでも市販の赤穂の輸入塩田のニガリを溶かして使うことがほとんどで、自然海塩のニガリで絹豆腐を固めるのは特に難しくこうした豆腐作りをしているところは全国に数軒しか残っていません。 お父さんの達夫さんは75歳まで現役で豆腐作りをしていました。一時会社勤めをしていた良穂さんが家業の手伝いを始め、一通り仕事がこなせるようになっても職人気質のお父さんは直接話して教えてくれることはなくニガリを打たせてもらえなかったそうです。ある時、お父さんが怪我をして仕事ができなくなり、ようやくニガリを打つことができましたが、うまく豆乳を固めることができずに失敗を繰り返していました。そんな時テレビ局の取材の中で、達夫さんがニガリを打つ瞬間のビデオ映像を見る機会があり、タイミングをつかんだそうです。 ニガリの打ち方が悪いと豆腐がきちんと固まらなかったり、味ムラができ美味しい豆腐になりません。ニガリを打った豆腐は水が貯められたステンレス製の風呂桶ほどある容器に入れられ、水を流しっぱなしにして冷やします。きちんと固まるまで1時間ほどかかるので、その間他の仕事をします。この日、良穂さんは頃合いを見て大きな包丁のようなもので水の中に入れた豆腐の四隅と中を切り、並べた容器に一つずつ長方形に切った豆腐を入れました。その後豆腐を容器に入れ、シールをし密閉して、冷蔵庫で冷やして出来上がり。1丁の豆腐を作るのに多くの手間と時間がかけられています。 豆腐の製造が終わったら次は機械の洗浄です。おからなど大豆粕が残っていると豆乳の味を落とすだけでなく、豆腐が腐敗する原因にもなるので少量しか作らない時も、全ての機械を毎日洗います。見ていると洗う仕事が一日の仕事の何割か占めています。手袋など使わず素手で水仕事をしているので夏場は良いが冬場は大変だと思いました。良穂さんにそのことを話すと「作業場で使っている水は全て地下20mくらいから引いた地下水を使っています。そのため冬は温かいですよ……」と笑って答えていました。 豆腐作りは素材がシンプルなだけに一つ一つの分量の配合と材料の良しあしが大きく食味にかかわってきます。大豆の煮方、水の加え方、ニガリの打ち方。それをその日の温度や大豆の状態などに合わせて一定の状態にもっていきます。特に塩田のニガリは年中品質が一定しているわけではないので職人としての勘や腕が試されます。さらに、海水からとれる微量成分が豆腐に深い味わいを生み、独特の旨みがある豆腐に仕上げます。

 

がんもと油揚げ作り

 

 この日、いったん休んで藤田さんご夫妻と談笑していると、がんもや油揚げ用につくった生地の水切りが終わりました。藤田さんは製品に合わせて豆乳の水分量を変えて、それぞれ生地を作ります。重さ20kgくらいの重しを加え水切りして、不要な水分を飛ばします。がんもは水分を飛ばした生地に具を加え練り込みます。練るのは良穂さんの仕事、そしてその後の揚げ物をするのは奥さん明美さんの仕事です。手際よく油の入った揚げ物容器の中に生地を落としていきます。私はすぐに熱を加えて揚げるのかと思っていたら、明美さんは火を入れず生地を全部入れて油になじませます。それから熱を加えるとゆっくり時間をかけてがんもを揚げていました。お父さんが現役を引退した後、ご夫婦二人でお店を切り盛りしてきました。明美さんは「家の中だけでなく仕事でもいつも顔をあわすことになった。夫婦げんかしたときでも仕事は一緒にやらないといけないので、そんな時はがんもの生地をお父さんが投げつけるようにして渡すこともあるんですよ」と話されますが、傍で見ているとお二人はいつも仲が良いご夫婦です。 がんもの生地がゆっくりと浮いてくる間に、油揚げを作ります。孫兵衛さんの油揚げは大きな四角い揚げ。肉厚で中にも豆腐の生地が残っていて、そのままあぶって生姜醤油などで食べると絶品です。10月過ぎにお寺さんの報恩講で注文が来るときはその2倍の草鞋のような大きさの揚げを届けるそうです。油揚げも油の中に生地を入れてから火を入れます。すると片側だけが曲がって浮いてくるので、そのつど手早く反対側に返し続けます。やがて時間がたつと曲がることもなくなり、真っ直ぐな形となりました。「人間の子どもと同じように最初はどっちかに曲がっていくように思えても、年と共に真っ直ぐになっていくんですよ」と明美さん。がんもがそのうちぷかぷか浮いてきました。白っぽい色から、キツネ色にこんがり色づいてきて、熱がまんべんなく届くように箸でがんもを回します。頃合いを見てがんもの油を切り、熱を冷まします。そして、余熱が取れてから袋詰めをします。がんもは秋口から11月にかけてが一番食べ頃とのこと。揚げている最中に生地がパンパンにふくらんでみるからに美味しくなるそうです。 揚げ物は普通の豆腐と違ってさらにひと手間かかり、夏場は暑くて特に大変です。孫兵衛さんが使っているのは圧搾一番搾りのなたね油。継ぎ足し継ぎ足し使ってもほとんど廃油が出ないいい油で、たまにバイオディーゼル燃料として廃油業者に持って行ってもらいますが、「油がきれいだ」と言われているそうです。

 

そして今日も豆腐を作る藤田さん

 現在、孫兵衛さんは店頭販売の他に、地元の2軒のスーパー、自然食品店のMOA、戸出・中田地区の小中学校の学校給食に豆腐を届けています。中田地区の学校給食は地元のお豆腐屋さんが納入していましたが、廃業されたのでこの地域を一手に担うようになりました。学校給食の仕事が入ると量が急に増え更に仕事は忙しくなります。しかも原価は抑えられているので採算を考えれば厳しい仕事です。先日、栄養士さんから「子どもたちが、こんなにおいしいがんも初めて食べたという感想があった」という電話がかかってきたそうです。大人は商品そのものの味より作り方など能書きなどで判断することが多いのですが、そんなことを知らない子どもたちの反応はストレートです。藤田さんは、子どもたちに本物の食べ物を知ってほしいと願ってつくり続けています。 昔と同じことを繰り返す日々の仕事の中に、将来の世代に伝えたいことがある──200年余りの歴史を受け継ぎ今日も藤田ご夫妻はこの地で豆腐を作り続けています。<取材:2008.7.18>

農産加工品
ねこのくら工房 宮脇廣さん

「わんぱく山」の村長から豆腐作りで

人生の再出発を始めた宮脇さん

五箇山豆腐を作っているところです

<写真は2011.9.3> 会員との交流会にて

わんぱく山時代のスナップ

友人・宮脇さんの転職

 

 ある日突然、“わんぱく山村長”として知り合った宮脇 廣(ひろし)さんから、これから豆腐屋さんを始めたいと相談を受けたときは、私(金谷)は返答に困ってしまいました。今まで、地元の旧・平村で五箇山木工特産組合として20年間木工工場を続けてきたが、近年工賃の安い東南アジアなどに仕事が流れている。そこで新しい仕事として豆腐屋さんを考えているとのことでした。同じモノづくりの仕事とはいえ、本人にとっても豆腐作りは初めての世界とか。五箇山地域では堅豆腐が特産品として販売されていますが、10年前に比べると富山県内の豆腐店は約1/3ほどに減り、大手の工場生産が当たり前となってきた時代の中で、山の中の仕事としてやっていけるのか……選択の厳しさを感じました。

 

私と宮脇さんとの出会い

 

 私が宮脇さんと知り合ったのは1996年のこと。旧・平村の前を流れる庄川・祖谷ダムで行われたカヌークラブの例会に参加した際、宮脇さんのお宅に泊まらせていただいたのが縁でした。その後、1998年にカヌーイストの野田知佑さんを呼んで「川の学校」を開催したとき地元の受け入れの中心となっていただいたのが宮脇さんご夫妻でした。この時は廃校(旧・東中江小学校杉尾分校)を再活用して公民館となった場所でカヌー、そば打ち体験、木工教室など200名が参加するイベントを行いました。実は、宮脇さんご夫妻はユネスコ協会のサポートを受けて1988年から「わんぱく山・ゴリラ分校」を主催し、イベント運営のノウハウはお手のものでした。 杉尾公民館で行われた「わんぱく山」は、参加する小学生と大学生スタッフ、地元の人々だけで自然体験を行う2泊3日の“学校”でした。その後、私の息子も4年間続けてお世話になりました。今では自然体験型の宿泊学習の機会は増えてきましたが、当時の富山県では先駆的な試みでした。 宮脇さんが生まれ育った旧・平村の人口は約1800人。ここには平飼い卵の生産者・上村さんの鶏舎もあり、木工工房「カントリーギッズ」の人たちが無垢材の家具を注文生産しています。しかし、地元の過疎化・高齢化の進行は止まりません。年間90万人が訪れる観光客にとってここは、世界遺産の里「五箇山」の通過点なのかも知れません。そんな山あいの村に子どもたちを呼んで村を活性化させたい。自分が通った学校に人々の息遣いを取り戻したい……。誰よりも故郷に愛着をもつ宮脇さんは、地域の特産品である五箇山豆腐に目をつけ、地域の人々が働ける場として豆腐店「農事組合法人・五箇山特産組合」を立ち上げました。今から考えると当然の選択だったのかもしれません。

 

地域と共に生きる豆腐店

 

 宮脇さんが豆腐屋さんへの転業を決意して3年、慣れない仕事でなかなかうまく豆腐が固まらないこともありましたが、小原営農センターで豆腐作りの修行をさせてもらいなんとか開業に至りました。ねこのくら工房をオープンしたのは2005年5月。地元で6軒目の豆腐店、40年ぶりの新規の豆腐屋さんの開業となりました。国道156号線の下梨地区の通り沿いにあるシャレたお店は観光客の目を引き、今ではインターネットや南砺の「道の駅」での販売も始まり、お客さんもついて仕事も安定してきました。 お豆腐は地元の大豆(JAなんと、JA福光産)を使い、甘さと旨みをあわせもった天草の塩「小さな海」からできた天然にがりと、高清水山より湧き出る水を使用します。消泡剤などは使用しない昔ながらの豆腐です。厚揚げなどに使用する油は圧搾法による国産なたね油を使用しています。五箇山の堅豆腐の特長を生かしてオリジナルの豆腐加工品も作りました。豆腐の昆布〆は昆布の味がじっくり染みた豆腐の漬物。豆腐の味噌漬けは熟成された“和のチーズ”感覚の豆腐です。その他、観光客のお土産品としておからドーナツやそば茶のプリンなども開発しました。 その後、何度か「ねこのくら工房」を訪ね、昨年2009年には会員とのイベントにお店を使わせていただきました。そこには、訪れるたびに“職人”として自信をつけた宮脇さんの姿といつも笑顔を絶やさない奥さんの明美さんの姿がありました。現在、宮脇さんは杉尾地区の区長にもなり、2008年の大災害で国道が寸断されたときに村の孤立を防ぐために道路復旧にも尽力してきました。五箇山の味だけでなく、故郷を守り続ける宮脇さん。私も友人の一人として応援を続けたいと思います。

<取材:2009年11月>

農業生産法人(有)小原営農センター

有機農業のパイオニアたちが始めた納豆作り

蒸した納豆に納豆菌を吹き付けます

納豆菌をかける三浦喜子さん

蒸した納豆は経木に手詰めします

富山の有機農業のパイオニア

 

 富山市の中心部を流れる神通川。旧・大沢野町の川沿いにあるのが小原営農センターです。1992年に代表の三浦直さんを中心に農業経験のない方たちが集まってできた組織ですが、今では立派な事務所や作業所ができ地域の農業の中心となってきました。小原営農センターでは県下でいち早く有機認証制度を取り入れ、お米を有機米として首都圏や大阪などに販売していますが、地元でのお付き合いも大事にしています。 みどり共同購入会と提携している品目で、定番品が百姓納豆。大粒の納豆が経木に包まれただけの、タレも辛子も付かないやや無骨な商品です。しかし、毎週の企画では利用が徐々に増えている一品。2007年の春の一日、百姓納豆のおいしさの秘密を取材しました。

 

納豆作りの仕事

 

 小原営農センターの作業所は、みどり共同購入会から車で20分あまりの場所。作業所の一角では曜日を決めて直接、納豆や豆腐も販売しています。「百姓納豆」「百姓とうふ」と麻布に豪快に書かれた文字とネーミングから、農家が作る実質本位の加工品作りに対する思いが伝わってきます。 加工場では週一回、毎週木曜日の午前中に納豆の豆を蒸し、室に入れる作業を行っています。加工部門では三浦喜子さんなどが作業を行っていました。納豆作りはとてもシンプル。まず、水洗いしてじっくり水に浸して、その後釜に入れた大豆を30分ほど高温の蒸気にあてます。大豆は中までふっくらと柔らかく仕上がり、これに納豆菌をふりかけます。納豆菌は国内では3ヶ所仕入先があるそうですが、山形県から取り寄せているそうです。蒸した大豆に菌をつけたあと経木の袋に小分けして入れ、室(ムロ)の中に入れます。室では約18時間、48度の高温に置いて納豆菌の繁殖を促します。その後は室から出して冷蔵庫に保管され出荷を待つだけとなります。みどり共同購入会には前週の木曜日に加工されたものが、翌週の火曜日〜金曜日にかけて配達されます。その他、加工品チームでは8名のスタッフが週2回、自作の大豆を使った豆腐も作っています。

 

生産者が豆を作り加工します

 

 納豆は昔ながらの「自然食」で、大豆と納豆菌だけで作られてきました。それだけに原料の大豆が味覚に大きく影響します。小原営農センターの納豆の一番の特色は、生産者が自分たちで栽培した大豆を使っている点です。大豆は有機認証を受けたエンレイ種の中〜大粒のものを使用しています。百姓納豆の美味しさは土作りがしっかりした大豆を使っていることが大きいでしょう。 ここで納豆作りを始めたのは2000年の12月から。始めた当時、みどり共同購入会に持参していただいたサンプルの納豆は、発酵にバラつきがあり堅い感じがしました。その後、蒸しあげや、室での発酵のコツをつかみ均一で美味しいものができるようになりました。配達されてすぐは納豆菌がなじんでいない感じありますが、時間が経ってくると納豆菌の繁殖も進み糸引きもよくなります。納豆の好きな人は時間が経ったほうが美味しいと、わざと日にちを置いて食べる人もいるそうです。昔の農家は納豆も自分たちで作っていましたが、温度が低いとアンモニア臭が強くなるので、農家が作るといってもやっぱり専用の施設がないと手づくりは難しいそうです。 小原営農センターの加工品には、もちやたくわんにも「百姓」というネーミングがついています。そこには自分たちで作ったものを加工してこそ本来の農家だと、仕事への誇りと職業人としての自負を感じることができます。

<取材:2007.11月>

風来 西田栄喜さん

産直の第三世代“日本一小さな専業農家”が作る漬物

「風来」の生産者・西田さんご夫妻

ハーブや野菜苗などの販売もしています

耕作面積が限られているので栽培は細かく計画的に実施します

農業は究極のサービス業

 

 「風来」のホームページには“日本一小さい専業農家”と書かれています。石川県では全国一耕地面積が狭い30a以上が、農家認定資格の基準となっています。西田さんの耕地面積はちょうど30aなので名実共に日本一小さな専業農家なのです。そんな「風来」のお店に私(金谷)が訪れたのは2007年5月6日のことでした。 「風来」のお店は石川県小松市の隣、能美市の海沿いに面した住宅地の一角にあります。この時38歳だった西田さんはここで農業を始めて7年目でした。西田さんは20代で海外を放浪し、バーテンやホテルマンなどサービス業の経験を積んできました。地元に帰ってきたとき自分で何か育てる仕事をしたい、それなら究極のサービス業として人の命を支えることを考え、全く新しい分野の農業を仕事に選んだのでした。 西田さんは「一般の農家の方が第一世代なら、たいへんな苦労の中で産直や農薬を使わない農業を広げてきたのがその次の世代。自分たちはしがらみもなく職業選択の一つとして“農”の魅力と将来性を感じて入った第三の世代だ」と明るく話されます。サービス業の視点から考えると農業には様々な可能性が感じられたそうです。

 

日本一小さな専業農家

 

 自宅兼直売場の前には畑が広がっていましたが、その大きさは家庭菜園を何倍か大きくしたような規模でした。畑では年間50種類以上の野菜やハーブが栽培され、多いときには一度に15〜20種類のものが収穫されます。肥料は米ぬかと国産大豆を使用したおから、圧搾搾りの油かすのEMぼかしを中心に与えています。害虫対策はトウガラシ、柿酢の焼酎漬けの散布と手作業による虫の防除で、農薬は使用しません。たくさんの種類を作ることで1つの野菜が全滅しても他の野菜を出荷できるメリットがあり、お客さんにいろいろな野菜を長く利用してもらうこともできます。 西田さんの販売は自然食のお店やインターネットなどによる直販です。中間マージンを省くことで消費者に安く届けることができ、本人の手取りも多くなります。以前スーパーにも出荷したこともありましたが、お客さんの声が直接返ってこないので止めたそうです。こうした耕地面積でもやっていけるのは、家族経営で無駄な農業機械を買わずに借金をせず支出を抑えていること。そして直接消費者とつながっていることが大きいようです。売上げ目標額は年間800万円ですが、この耕地面積でもサラリーマンの年収と同じ収入を確保しています。

 

漬物屋さんが野菜を作る意味

 

 西田さんの本職は「漬物屋」さん。野菜の直販もしますが、自分で栽培した野菜を使って無添加の漬物を製造します。そのことを西田さんは「農家が畑で余った野菜を漬物にして販売するのではなく、『漬物屋』さんが一番良い状態で消費者に漬物を食べてもらいたいから野菜作りから始めているのだ」と言われます。実際に畑で栽培された野菜の半分以上は漬物用として加工されます。漬物のメインのキムチに使う白菜は種を韓国から取り寄せ、漬物に適した品種が野菜栽培で選択されています。そして、野菜が一番美味しい状態で収穫され漬物として加工されます。「風来」では加工場のすぐ前の畑で採れたての野菜を5分も経たないで塩漬けすることができます。西田さんはこれを“野菜の活き造り”と呼んでいます。 野菜を栽培するだけでなく加工し、直接販売する。西田さんは農業のあり方を独自の発想で追求してきました。こうしたお話を聞くと農業は経営者としての優れた感覚を持ち、独自性を生かすことができれば、非常に魅力的な仕事の一つになるとあらためて感じることができました。といっても西田さんが目指すものはあくまで身の丈にあったスローな生活と経済。土を通して今の環境や政治のことを考えると何が大切なのか、今の日本に何が足りないのか、自然の前では人間の力などたかが知れていることなどがよくわかってきたそうです。 西田さんは農的な豊かさを求めてこの仕事を始めたこともあり、これ以上規模を大きくすることは考えていません。日々農業や野菜づくりの楽しさをブログなどで消費者の方々に伝えています。人に話すときは、農業のマイナスイメージは伝えないようにしているとのことですが、実際この仕事が楽しそうです。新しい農家“第三世代”の西田さんのような方が日本中に広がっていけば、この国の生産と流通のあり方は根底から変わってくると感じました。

<取材:2007.5.6>

(株)登喜和食品 遊作誠さん

納豆一筋、国内の契約産地の大豆を使用し続けるのは

創業者・遊作社長の思いがあります

経木を使用する納豆は手作業で製品にします

原料大豆も品種・産地によって味が変わってきます

納豆づくりのようす

国産大豆一筋に賭けた遊作社長の思い

 

 今年で創業60年になる登喜和食品。日本の農業を応援することを会社の理念に掲げ、国産大豆だけを使った納豆を製造しています。添付してあるタレや辛子も合成保存料や着色料を使わないという姿勢にも共感して、みどり共同購入会とは2007年から提携が始りました。2009年5月に私(金谷)が東京都府中市の工場を訪れ、社長の遊作 誠(ゆうさく まこと)さんに直接お話を聞く機会を作っていただきました。 遊作社長は家業を継ぐ前は土木技術者として、道路の建設に携わっていました。東北自動車道の建設現場に派遣された折り、宿舎となっていた農家のご主人が出稼ぎ先から戻らず消息不明に。残された家族を一人で支えていた奥さんが、自殺するという事件に遭遇します。日本の農業の厳しい現実を目の当たりにしました。そのことで、この国の農業のあり方に疑問を抱き、農家を助ける仕事をしたいと考えるようになりました。遊作社長は家業の納豆メーカーを継いだ後、10年前から原料大豆は全て国産大豆に切り替えました。日本人の食生活に欠かせない大豆の自給率はわずか5%あまり。国産大豆を使うことで日本の農業を応援していきたいと考えたのでした。 登喜和食品ではどんな生産者がどのように栽培したかがわかるトレーサビリティーを確立しています。北海道十勝の大粒大豆、茨城県金砂郷の極小粒大豆、栃木県益子の中粒大豆、そして地元東京産の大豆などを製品によって使い分けています。豆は農薬不使用または減農薬栽培で、全て契約栽培によるものです。継続して提携できるように、安定した価格で買い取りを行っています。今後は在来種の大豆を掘り起こし、日本の大豆の良さを残していきたいと考えているそうです。

 

納豆菌まで自社で研究開発しました

 

 納豆は、煮たり蒸したりした大豆に納豆菌を使って発酵させただけ。たった2つの原材料でできます。そのため原材料選びがとても大切です。最近の市販品の納豆では生命力のなくなった大豆を使用しているせいか、納豆菌の繁殖をよくするために米粉を入れたり、納豆の糸を引かせるために砂糖を添加したりする製品もあるそうです。 また、5%まで遺伝子組み換え大豆が混入した輸入大豆を非遺伝子組み換えと表示しても問題がありません。登喜和食品では国産大豆だけを使用するので遺伝子組み換え大豆が混入する心配はありません。大豆の発酵は1986年に特許をとった「薫煙炭火造り」という技術で発酵室の熱源に炭火と電熱ヒーターを併用し、それぞれの大豆にあった方法を取ります。 納豆に使用されるのは「宮城野菌」「成瀬菌」「高橋菌」という3つの発酵菌です。遊作社長は「納豆菌の培養過程も、消費者に見える形にしたい。製造メーカーの責任として、使用している原料のすべての素性を知らないのはおかしい」として、自前の納豆菌作りにチャレンジしてきました。 納豆菌は土壌微生物の枯草菌の仲間で、日本中どこにでも生息しています。かつては農家がワラに付いていた納豆菌を使って自家用に納豆を作っていたこともあります。登喜和食品では栃木県の高橋丈夫さんという生産者の、長年農薬を使用していない古代米栽培の土壌から採取したものを培養しました。研究開発は東京都食品技術センターや他企業と共同で進められ、納豆菌の培養を始めて5年が経ちました。新しい菌を使った納豆は味はとても良いのですが、糸引きが弱いため改良を重ねています。いずれは自前の納豆菌に切り替える予定ということでした。この日案内された冷蔵庫の中にはさまざまな試作品が保管されていました。

 

納豆の専業メーカーとしての誇り

 

 工場を見学すると、ひきわり納豆は特注品の機械を使用していました。その機械で仕込み直前に丸大豆を挽き割ることで、味わいを良くします。納豆を包む経木も国産品。工場のラインで作られるカップ入りの納豆と違って、一つひとつ手づくりです。営業の村田真一さんに案内された工場の一角に積まれていたのはワラづとでした。「本作り納豆」の包材として使用されますが、農薬を使用していない米や古代米のワラが使われています。一般の「ワラづと納豆」はビニールなどに納豆を包んで別に発酵させたものを詰めていますが、登喜和食品では蒸した大豆を直接ワラづとの中に入れます。衛生管理のためにワラづとは熱や圧力をかけ殺菌しますが、それでも生き残った何個かの生命力の強い納豆菌と煮豆に少量摂取した納豆菌によって発酵が行われます。村田さんは「年間必要量を確保するのが大変で、大豆よりも高い入れ物を使っているんです」と笑いながら話をされました。そう、これは昔ながらの農家の納豆作りを再現した超レアものの商品なのです。 現在、登喜和食品で力を入れているのがテンペです。テンペはテンペ菌で発酵させた東アジアの無塩大豆発酵食品です。納豆の機能性効果が高い「ナットウキナーゼ」は63℃の熱を加えると死んでしまうため生で食べる機会が多いのですが、テンペ菌は大豆の栄養成分をさらにパワーアップしたものです。熱を加えても効能は生きるのでさまざまな料理に利用でき、最近マクロビオティックの料理などでも注目されています。遊作社長は「調理方法を消費者に伝えることで納豆とテンペの世界を広げたい」そんな意気込みを語っていただきました。

<取材:2009.5.14>

漬物本舗「道長」石川豊久さん

漬物作りのプロが語る美味しい食と

食の安全への取り組み

みどり共同購入会事務所を訪れた石川豊久・貴架子ご夫妻 2007年7月

石川さんに料理講習会で教えていただきました

高知の天日塩だけで味付けした白菜漬

石川豊久さんの歩み

 

 漬物本舗「道長」の代表・石川豊久さんはサラリーマンを4年ほど経験した後、スーパーに勤めて漬物作りの技術を学びました。息子さんが1歳になったのを契機に独立。最初はトラックに漬物などを積んで売り歩く引き売りで生計を立てていましたが、生協と出会ってから添加物は使わない、まともな調味料を使う、野菜を選ぶことを基本に自分の漬物作りの方向性が定まっていきました。「売るため」の漬け方から、食べものとしての漬け方へと試行錯誤し、10年後に販売方法を注文販売一本に切り替えるようになりました。2010年で営業を始めて29年。今では4人家族の中で、奥さんの貴架子(たかこ)さんと一緒に息子の恵一さんも働いています。 「道長」ではみりん・酢など漬物の素材に合う伝統的な調味料を厳選して使用しています。石川さんは海水を太陽光や風の力によって濃縮・精製する天日塩に出会ってあらためて「塩」という調味料のおいしさを知ったそうです。今では塩を隠し味に調味料の味を前面に出さず素材そのものを生かした漬物作りをしています。2007年末から販売を始めたのが「塩だけ白菜」。白菜を塩だけで漬け込んだ自信作です。食べもの商う仕事を始めて最近では、自分が作ったものが美味しくなったと自信を持って感じられるようになったそうです。

 

ぬか漬に込められた思い

 

 塩漬・酢漬・醤油漬・みそ漬・朝鮮漬など常時30品目以上の漬物を製造している「道長」ですが、漬物の基本だと考えているのはなんといってもぬか漬けだそうです。米糠で作った漬物は奈良時代から伝えられた日本の食文化であり、すぐれた発酵食品としての歴史を持っています。かつて日本人の食生活は一汁一菜として、ごはんの他にみそ汁と漬物が基本でした。どちらも発酵食品です。漬物は一夜漬けではなかなか発酵しませんが、発酵したぬか床があればそれに生野菜を詰め込むだけで一晩で発酵食品に変わります。ぬか漬けは発酵食品のメリットのほかに、白米からでは摂取できないビタミンB群などの栄養素をとりいれることができ一石二鳥の食品となります。 「道長」では以前はたくさんのぬか漬けを作っていました。しかし、発酵が進むと袋がパンパンに膨れるなどのクレームがあったのと、ぬか床から出してすぐに食べるのが一番美味しいので、誰でも簡単にぬか漬けが出来る「つけ太郎 ぬか」という製品を作りました。漬物教室では簡単に漬物作りができるコツを伝え、ぬか漬けを初めとして漬物のおいしい漬け方も広めています。2007年11月にみどり共同購入会で行われた料理講習会では石川ご夫妻からぬか床作りのコツを教えていただきました。野菜だけでなく魚のぬか漬けも作っていただき、参加された会員の皆さんと舌鼓を打ちました。

 

食の安全を取り戻す取り組み

 

 石川豊久さんは地域で様々な活動をしていますが、特に遺伝子組み換え食品への取り組みでは全国に知られている方です。この問題に関わるようになったのは、2001年に愛知県で遺伝子組み換えイネの研究開発が進行中であることを地元の農家から知らされたことからです。その後遺伝子組み換えイネの研究は、全国から寄せられた58万人の反対署名と、2003年に名古屋で開催された遺伝子組み換えイネ反対集会によって、断念させることができました。現在は遺伝子組み換えナタネの自生問題に取り組んでいます。名古屋港や四日市港で荷揚げされるナタネの輸入が原因で、周辺の幹線道路で輸送途中にこぼれ落ちたセイヨウナタネが遺伝子汚染を引き起こしています。遺伝子組み換えナタネが拡散し、他の作物や雑草と交雑し、今後深刻な環境汚染を起こさないよう、調査・抜取作業をおこなっています。 日本の食を外国に頼っていることへの疑問から、地元音羽町では食育や米飯の導入など学校給食への取り組みや生ゴミの堆肥化も行っています。農産物の地産地消も進め、漬物原料以外にも、地元の「わっぱの会」知多共働事業所の製粉工場と製菓屋さんと共同開発したかりんとうや地元産小麦を使った生麩の販売なども行っています。地域で作ったものが地元で加工・流通されること。石川豊久さんは遺伝子組み換え食品が蔓延し工業化された農や食とは違った世界を展望しています。

<取材:2010年>

(有)くしはらの里

こんにゃく芋の生産・加工を通して

中山間地の産業を支えてきた「くしはらの里」  

くしはらこんにゃく芋の栽培風景

こんにゃくの出荷作業をしています

こんにゃく芋をゆでています

低価格のこんにゃくの秘密

 

 少し前の時代まで、こんにゃくは中山間地の地場産業として作られたり、原料を持ち込んで町のこんにゃく屋さんによって一つ一つ手作業で製造や販売が行われていました。現在ではスーパーなどでは1つ100円以下という低価格のこんにゃくが並んでいます。こうしたこんにゃくはオートメーション化した工場で大量生産されたものです。袋ごとこんにゃくを固めるため長方形の角ばった形ではなく、こんにゃくの角は袋の形のまま丸くなっています。 その中身もこんにゃくを粉にした精粉が主に使用され、原料の多くは東南アジアや中国からの輸入品です。そんな低価格のこんにゃくと違い、まじめに昔ながらのこんにゃく作りを守ってきたのが「くしはらの里」のこんにゃくです。

 

「くしはらの里」のこんにゃく作り

 

 「くしはらの里」のこんにゃく工場がある岐阜県旧・串原村は面積の8割以上を山林が占める、人口が1000人にも満たない山里です。そこで営まれる昔ながらのこんにゃく工場を訪問したのは2008年9月3日のこと。山のハム工房「ゴーバル」さん訪問の帰路、代表の中垣睦美さんに案内させていただきました。 「くしはらの里」では地元のこんにゃく芋だけを使い、多くの工程が手作業によって行なわれています。この日はこんにゃく芋を皮のまま煮込む作業をしていました。こんにゃく芋は収穫期のものは畑から掘ったものを使用しますが、収穫前だったので冷凍した生芋を使用していました。 茹で上がった生芋は皮や芽をむいて、芋すり機にいれます。ここで芋をドロドロにして、砕いてポッパーに入れ練り機に移します。練り機でこんにゃくの成分のマンナンを練ることによって粘りを出します。こんにゃく屋さんは別名「練り屋」と呼ばれます。練り続けることで粘りの成分を強く出すことが美味しいこんにゃく作りのポイントです。市販品は色を黒くするために海藻を混ぜることもありますが、「くしはらの里」ではこんにゃく芋の皮を一部残すことで色を黒くするだけで、他は何も使いません。 また、こんにゃく作りでは凝固剤として消石灰の水酸化カルシウムが使用されます。水酸化カルシウムの含有量が多いほど少しの量でこんにゃくを水と一緒に固めることができますが、そんな製品はアクが強く出て、こんにゃくを塩でもんだり熱湯でゆでないと使用できません。ここでは水酸化カルシウムの使用量を極少量の1kgあたり7〜8g程度に抑えています。 板コンニャクは専用の型枠に入れて一晩置いて切ります。穴をあけた絞り出し機でつくるのは糸コンニャクやしらたきです。作る過程で多量の水を使用しますが、練ったマンナンに加える水だけでなく、洗ったり、漬けたりする工程すべてに「くしはらの里」では地元の美味しい地下水を使います。比較的日持ちがするこんにゃくですが、ここでは味にこだわりこまめに製造し、作り置きはしないように心がけています。

 

地元で栽培されるこんにゃく芋

 

 中垣睦美さんは以前は生産農家の一人だったそうで、近くのこんにゃく畑を案内していただきました。ここで作っているのは在来種の品種。群馬県などでは大きくなる赤城大玉などの品種もありますが、その分水っぽく食味に欠けます。在来種は味が良いのですが、平たん地では育たず保水力があって排水が良く日当たりの悪い場所に適している品種です。旧・串原村では桑畑の栽培のピークが過ぎた1957年以降から本格的に栽培するようになり、今でも10軒以上の農家が栽培しています。 栽培農家は岐阜県クリーン農業の認定を受けているので、3年ごとに検査機関によって更新の審査が行われます。殺虫・殺菌剤は年間2回まで、混合して使うなら1回まで、病気予防のボルダー液(石灰や硫酸銅が主成分)は認められますが、除草剤は植えつけ前1回まで。土壌消毒や化学肥料は使用しない。肥料は草木灰や堆肥を使用するなど、細かく決められた原料芋を「くしはらの里」では使用しています。 「くしはらの里」のこんにゃくは、原料までこだわって作られているので美味しいのが当たり前。こんにゃく屋さんは中山間地で人々の雇用の場も作ってきた地場産業です。山里の人々の暮らしを守っていくためにも、このようなこんにゃく工場を残していくことの大切を感じた訪問でした。

<取材:2008.9.3>

恵みファーム 上田順仁・千恵子さん

“草で牛を飼う”そのあたり前のことを

実直に実践してきた上田夫妻の思い

上田さんご家族

当時はまだホルスタインが飼育されていました

餌のほとんどが自家製の牧草です

上田さんと「恵みファーム」

 

 「恵みファーム」の牧場は富山県境から少し離れた、石川県黒崎の海岸から山道を20分程車で走ったところにあります。晴れた日には富山湾や立山連峰が望める高台で、少し降りたところに一軒の農家がある以外は周囲には人家もない一軒家です。ここに、52歳になる順仁さんと奥さんの千恵子さん、中学生になる2人の女の子と小学生の男の子1人の一家5人が生活しています。 高岡市出身の上田順仁さんは若くして牛飼いを志し長野・新潟県の酪農家で研修を経て、26年前にここに入植しました。海に近く積雪も多い年でも1mにもなりません。丘陵地には原野が広がり、水は近くの沢から引いてきます。最近では都市近郊では家畜を飼うことが困難な時代になっていますが、上田さんは「ここは牛を飼うには理想的な環境だ。」と話されます。 上田さんが今のように“牧草”で牛を飼う決心をしたのは、実は研修先での経験がもとになっています。当時、アフリカなど第三世界の国々の飢餓が社会的にも大きな問題となり、キャンペーン活動が盛んに行われていました。日本では外国から大量の輸入穀物を与え濃厚飼料で脂肪分を多く入れた“サシ”の状態でなければ牛の格付けで高いランクにはならず食肉として評価されません。国内で流通する食肉は牛肉1kgを作るのに、穀物15kgが必要だと言われています。上田さんは本来牛は人間が食べられない草を食べさせて育つ家畜であり人と共存できるのに、人間が食べる穀物を与えて牛を育てることはおかしいと考えたのでした。

 

牛飼いとしての生活

 

 「恵みファーム」には現在生後1ヵ月から6歳までの牛が17頭います。ここでは多頭飼育で効率を追求し生後2年くらいで出荷する一般の農場とは全く違った飼育が行われています。牛舎は3か所、それぞれ牛の大きさによって柵の大きさも異なるのでグループごとに牛を分けています。飼料のほとんどは牧草の乾草とサイレージです。牧草は4haほど栽培して年2〜3回収穫しています。それを天日乾燥して牛に与えます。冬から5月までは牧草の収穫ができないために、牧草を乳酸発酵させたサイレージと呼ばれる餌を牛に与えます。これが主食とすれば、おからと米ぬかはおかず。おかずを与えることで牛は太っていきます。おからは近くのお豆腐屋さんで乾燥したものを購入します。そして、健康を保つために貝化石と塩が混ざったものを牛に舐めさせます。このように「恵みファーム」ではシンプルで国内で自給できる餌によって牛を育てています。 上田夫妻の一日は牛を中心にまわります。朝6時過ぎと夕方8時の一日2回餌を与えます。牛はなんども胃の中で消化・吸収の作業を繰り返す反芻動物なのでいっぺんに餌を食べることはなく、早朝餌を与えてもゆっくり食べ続けるそうです。水は大きな牛なら一日180リットルの水を飲みます。これだけ水を飲むので糞尿もたくさん出ます。しかし、上田さんの牛舎はいつ訪れてもいやな臭いがありません。草を主食にしているためですが、牛の寝床の牛床(ぎゅうしょう)には1日1回もみ殻を敷いて乾燥した状態を保ちます。牛床はきれいに毎日掃除し、たい肥置き場に掃除したものを移します。それは熟成したい肥となり、牧草地に撒き土地を肥やします。 上田家ではこうした牛の世話と共に麓の集落まで子供たちの送迎や自給用の野菜作りなどを仕事の合間に行っています。忙しくなるのは5月頃から始まる牧草の収穫の季節です。刈り取った草が乾燥するまでの間に雨が降ると仕事をやり直さなければならず、収穫適期は2週間ほどしかないのでこの時期は時間とのたたかいです。牧草は長く収穫できる永年牧草と1年ごとに蒔く必要がある一年生牧草を組み合わせ、収穫時期を変え植えています。

 

「恵みファーム」の課題

 

 こうして育てられた牛ですが、現状は年間5〜6頭しか出荷できていません。以前は生協に出荷していましたが、穀物飼料の使用など飼い方の変更を迫られて提携をやめました。また、一般市場に出したこともありますが、育てた苦労に見合う価格でなかったそうです。日本では牛の育て方や肉の安全性よりも、子牛の血統や脂肪の入り方などが絶対的な市場評価となっています。そのため現在の出荷先はみどり共同購入会と風屋共同購入会だけに限られていますが、熱心なキリスト教徒でもある上田さんは生き方の姿勢としても、今の飼い方を貫き続けています。 上田さんの牛は射水市の食肉処理センターに運ばれブロックごとに分割されます。それを豚肉の処理を行う新潟県のまきばに運んで、部位ごとにパックし冷凍して当会の配送センターで保管します。部位バランスなどは価格や企画回数などで調整していますが、狂牛病問題が落ち着いた今は牛肉の利用量は横ばいです。 上田さんは「一般的な飼い方と『恵みファーム』の飼い方の違いを会員の皆さんに理解していただければいい」と話されます。今まで子牛の価格が安いという理由でホルスタインのオスを育てていましたが、みどり共同購入会の働きかけがあって「恵みファーム」では和牛と乳牛が交雑したF1種(一代雑種牛)へ切り替えを進めています。2年先にはさらに美味しい牛肉を会員の皆さんにお届けできるでしょう。今後も会員の皆さんが食べ続けていただくことで、上田さんの肉牛飼育を支えていただければと思います。

 

<取材:2008.11.13>

肉・ハム
茶路めん羊牧場 武藤浩史さん

羊に魅せられた武藤さん

その半生と羊を取り巻くその世界

2004年アースデイとやまに参加された武藤さんご家族

牧場

放牧された羊・ポルドーセット

武藤さんのプロフィール

 

 「羊がいなくなったとしても日本の大勢になんら影響はありません。でも『羊も居てもいいよ』と思われることはあってもいいのではないか、マイノリティーの数が多いほど世の中は面白いし、『いろんなマイノリティーがあってもいいよ』と認める寛容性をもつことが社会の豊かさなのではないでしょうか」と語る武藤浩史さん。 この国でも生産されたものを購入する消費者がいれば、そこで羊は存在でき自分達も存在できる。顔の見える範囲でしかラム肉を販売しない。そんな武藤さんと羊との出会いは何だったのでしょうか。 1958年京都に生まれた武藤さんは北海道に憧れて帯広畜産大学に進学。大学3年生のときに実験動物飼育舎で羊と出会いました。視点の定まらないガラス玉のような羊と目が合ったことから、羊に魅せられ以後“羊男”としての人生を歩むことになります。大学院を経てカナダで本格的に羊の飼育を勉強し、1988年に牧場を譲り受ける機会に恵まれ白糠町に入植しました。当初はひつじ小屋の片隅に寝起きしながら35頭の羊とスタートしました。畜産の中でもマイナーな存在の羊の飼育では国からの補助金もなく、自分の力で農場の基盤を作ってきました。

 

日本の羊の歴史と茶路めん羊牧場

 

 羊は1万年以上前からヒトと関わりがあり、肉だけでなく衣や住・楽器などにも利用され世界中で最も身近な家畜です。日本でも戦前は羊は羊毛目的に東北や北海道の農家で普通に数頭づつ飼われ、昭和30年前半には100万頭も飼育されていたことがありました。しかし、自給の必要のない畜産物として扱われ関税が自由化され非課税品目となり、わずか10年後には1万頭まで激減しました。現在は日本ではラム肉ブームが起こっていますが、雌羊が生む子の数は平均1.5頭で国産の羊は急激に増やすことができず維持していくのが精一杯なのが現状です。そのため国内産の羊肉を食べる機会は非常に少なく、日本では99.5%を輸入に頼っています。 ラム肉ブームの背景には羊肉はカルニチンというアミノ酸が肉類の中で最も多く含まれ、体内の脂肪を燃焼しダイエット効果もあることやコレステロールが低く栄養豊富なヘルシーな肉として注目されてきたこと。また1歳未満の羊肉(ラム)の調理方法が知られ、生のラム肉は羊特有の臭みもなく柔らかく、とても美味しい肉だと理解されてきたことがあります。それまで、比較的羊とのつき合いの歴史がある北海道でも輸入された2歳以上の羊肉(マトン)を濃い味付けで味わうジンギスカン料理が主流でした。 しかし、このブームは茶路めん羊牧場にとってはあまりありがたくない話でした。ブームによって、今まで近隣の農家から分けてもらっていた子羊が手に入らなくなり、羊の頭数が足りなくなったからです。500頭飼育していた羊が300頭まで減り、2006年の冬にオーストラリアから子羊を輸入し、最近になってようやく定期的に出荷ができるようになりました。

 

羊の飼育と武藤さんの想い

 

 茶路めん羊牧場の羊は大型で成長も早いサフォーク種と武藤さんが好きな種類のポールドーセットが中心です。羊は生まれて半年後の秋に繁殖し、翌年の春先に出産します。親羊は子羊が離乳すると放牧されるようになりそれが飼育の基本となります。子羊は放牧と足りない栄養分を自家配合飼料で補います。肥育して肉にする羊は運動できるスペースをつくりながら牧草と自家配合飼料で育てます。牧草地には冬の間たまった堆肥を1年間熟成したものを散布しますが、それだけでは足りないので草を発酵させたサイレージの分は周りの酪農家から分けてもらいます。 羊のエサの中心は草ですが出産・授乳中の親羊や飼育中の小羊は栄養補給のために自家配合飼料を与えます。基本飼料は北海道産小麦、大豆、砂糖大根の絞りかすのビートパルプの国産原料を基本に、輸入の牧草を乾燥したルーサンキューブなどに炭の粉、昆布粉末、土壌菌からとった生菌剤を加えます。遺伝子組み換え作物や予防的な抗生物質や添加剤を加えず、病気の少ない健康な羊作りを飼育段階から工夫しています。 武藤さんはできる限り羊から採れるものは利用したいと考えています。内臓の利用もその一つですが、羊毛やムートン(羊の毛皮)、羊の脂の利用も考えています。サフォーク靴下や羊毛布団・羊毛枕は製品化となり、石けんも試作中です。肉と違っていろいろな仲間との協力で進めている段階で、なかなか事業的に採算がとれるものではありませんが武藤さんの羊に対するこだわりから続けています。みどり共同購入会でも武藤さんの思いに共感し、製品化されたものについては順次、会員の皆さんに紹介したいと考えています。

 

<取材:2007.8.17>

(株)ジビエ 廣田明夫さん

北の大地で野生のエゾ鹿を追うハンター

そして加工職人の廣田さん

廣田さんとその日に仕留めた2頭のエゾジカ

狙撃するところ

仕留めてすぐに血抜きをします

エゾ鹿猟を体験しました

 

 「あれは鹿みたいですね。ちょっと撃ってみましょう」そう言うと、廣田明夫さんは屋外に出てライフル銃に弾を詰めました。ジープの荷台から獲物に焦点を合わせると、一発で約20㎏の小鹿を仕留めたのでした。ここは北海道白糠町。私(金谷)が「しっでぃぐりーんネットワーク」の川原さんとエゾ鹿の販売を行っている (株)ジピエに訪問した8月18日のことでした。代表の廣田さんに解体・製造場を見学させていただいた後、事務所で話をお伺いしていたときのことでした。夕方になり警戒心をなくしたのか目の前の牧草地に1頭のエゾ鹿が現れ、思わぬ光景を目にしたのでした。 廣田さんはエゾ鹿に息がないのを確認するとその場でナイフを入れ、腹を裂くと血抜きをし、手馴れた様子で獲物をジープの荷台に積むと、会社裏手の解体場に運び解体作業を始めました。仕留められたエゾ鹿は後ろ足を縛って逆さに吊り下げられ、まず皮がはがれました。裸になった肉の塊は血合いがきれいに取り除かれ、水洗い後、殺菌のためオゾン水で洗浄されました。この後、一晩置いて肉を柔らかくして隣の加工場に移し、部位ごとに切り分けて低温の熟成庫で保管されるそうです。ここに2日以上置いておくと再び多量の肉汁(ドリップ)が出ます。その後、ブロックとなった肉が解体され利用しやすいように部位ごとに小分けやスライスが行われます。最後に真空パックされ冷凍や冷蔵状態で保管され製品として出荷されるそうです。20分もかからず解体作業が終わり、事務所で話の続きをしていると、「また出てきた」と廣田さんがつぶやきました。あわてて外に出るとエゾ鹿の親子を発見。距離にして300mはあったでしょうか。日没前の薄暗い中で、私たちには茶色い塊が動いているとしか見えません。「今度は頭のこみかみの部分を狙ってみます」と廣田さんが狙撃。2発目に命中。動かなくなったエゾ鹿を見ると見事にそこに当たっていました。これは80㎏以上のメスの親鹿でした。

 

鹿肉の有効活用とその背景

 

 野生動物の食肉はフランスなどではジピエといわれ、家畜の肉よりも格式の高い高級食材として位置付けられています。日本では野生の食肉は獣臭い・堅いなどのイメージがありますが、かつては「ハレ」の日の食材として、貴重な動物性たんぱくの摂取源にもなっていました。抗生物質漬け、脂肪まみれの今の家畜の食肉に比べて、自然のものを食べ野山を動き回る野生動物の肉はとてもヘルシーな肉です。

 現在、鹿を始めイノシシやクマなどが増え人間の生活領域まで進出しているなかで、保護するだけでなく管理しながら生息数をコントロールしていくことが必要となっています。北海道ではエゾ鹿は天敵がいないため増え続け64万頭が生息していると言われ、農林業の被害は道内で約51億円。自動車事故も多く、今回私は事故死したエゾ鹿を2頭を見ました。白糠町はエゾ鹿が特に多い地域で有害駆除地域に指定され、認定を受けたハンターは10月から2月の一般狩猟期間外でも猟ができます。1頭仕留めると自治体から5000円の補助金があたり、北海道では「有効活用のガイドライン」などを作成して、食肉資源としてエゾ鹿利用を積極的にアピールしています。

 

(株)ジビエ設立の経緯と鹿猟

 

 一瞬の緊張感から解放され饒舌となった廣田さんから次々に面白いお話を聞くことができました。狩猟を趣味にしていた廣田さんが32年間のサラリーマン生活をやめ、現在の会社を興したのが2007年のこと。それまでは自動車会社の営業課長をしていました。(株)ジビエは息子さんとパートさんを含め4名の会社です。野生のエゾ鹿は本来はとても美味な肉ですが、こうした評価がされてこなかったのは、仕留めた後の処理や加工技術の問題が大きかったと廣田さんは言われます。野生動物は仕留めた後、時間がたつと独特の獣臭い味が肉に回ってしまいます。廣田さんは仕留めるときに血や内臓の臭いがつかないように首などの場所を狙って弾を打ち、短時間で血抜き処理します。ゲームとしての狩猟では弾が当たればいいのですが、プロの仕事として食べる段階まで考えて対応します。地元では廣田さんは“ゴルゴ13”並みの狙撃の腕と評されていますが、現場を見るとそれも納得。ちなみに57歳の廣田さんの視力は今でも2.0だそうです。

 エゾ鹿が美味なのは盆明けから。今年は山に雪が少なく、山から降りる鹿の数も少なかったそうです。鹿は皮や頭、内臓も捨てるものがなく、後は有効利用されます。(株)ジビエでは犬のペットフードとして乾燥した商品を自社開発しました。全て人間が食べられるもので作っていますので、ペットにも安全な食材です。今後は鹿肉の食べ方をいろいろな形で提案していくことが課題だそうですが、レストラン販売などの需要は徐々に増えているそうです。

 エゾ鹿は山で行者ニンニクなど他の薬草を好んで食べ、ストレスを感じず自由に走り回っているので、その肉は食べると格別の風味があり元気がでる肉だそうです。北海道の自然が育んだ食材は今後さらに注目されると思います。

 

<取材:2011.8.18>

(株)シガポートリー

国内養鶏の存続が厳しい中で企業化することで

その存続を進める「鶏一番」

鶏一番の加工場スタッフの皆さん

鶏舎で飼育しているところ

鶏肉の加工

減り続ける国内の畜産農家

 

 鶏肉生産者の株式会社鶏一番(以後、鶏一番)は1968年に有限会社古橋ブロイラーの名前で始まりました。古橋ブロイラーは、エサや飼育方法にこだわった特殊若どりのブランドとして“鶏一番”の名前で鶏肉の生産を始め、1975年に法人化を行いました。2008年には畜産飼料会社の株式会社湯浅商事の子会社となりました。鶏一番の農場は以前4ヶ所ありましたが、提携農家の廃業によって生産者は愛知県新城市の大久保さん1軒となり、不足分を補うために岡崎市に直営農場を開設しました。 ここ数十年の間に日本の畜肉生産の現場は大きな変化が起こっており、食肉の安全性を問う以前に、国内の生産基盤が崩壊しつつあります。データで見ると国内生産量は食肉全体で1960年には44.2万トンで自給率91%でしたが、2007年には生産量は313.7万トンと飛躍的に増産されてきたにもかかわらず自給率は56%と減っています。鶏肉に関していえば、その頃は全て国内で自給していましたが、現在自給率は約70%。生産者は1965年には約8万戸あったのが2006年には約2600戸に減っています。生産者減少の一番の要因は規模拡大をしなければ生産農家として続けていけなくなったことです。その他、大規模化しても輸入食肉が安いために高騰している飼料代を生産者価格に上乗せできないこと。新たな鶏糞などに処理費が増えてきたこと。鳥インフルエンザなどの感染病が発生すると壊滅的な被害を受けるなど新たなリスクが発生したことなどが、国内生産者の減少を招いています。

 

とり一番の直営農場を見学しました

 

 2010年11月11日に私(金谷)が鶏一番の農場を訪問しました。名古屋から名古屋鉄道で1時間ほどの本宿駅でとり一番の小杉部長の車に30分ほど同乗させていただき、静岡県境に近い岡崎市の直営農場に行きました。車一台やっと通れるような山の中を進み、農場は人家から離れた切り開かれた場所にありました。昔は人里近くでも畜産をしていましたが、最近では住民の人の反対や人の出入りがあると病原菌の感染源となるために、こうした山の中に畜舎が作られます。直営農場は4町歩の面積があり8つの鶏舎で、現在年間10万羽の出荷を行っています。これでも国内の養鶏業の規模としては小さいほうです。 鶏一番では約40gに育った「チャンキー」という鶏のヒナを購入し、最初に鶏舎に入れます。エサは独自の前期と後期に分けて与えます。飼料は動物性のものは与えず大豆かすやとうもろこしは遺伝子組み換えでないものを使用し、ポストハーベスト処理も行っていません。こうした独自の配合飼料を与え、70~80日後に出荷します。飼育数は平飼い飼育で夏は30羽、冬は45羽と季節に合わせて変え、自然の風や光が入る開放鶏舎で育てます。清掃は鶏舎単位で行い、床にしいたオガくずごと糞尿を回収し、その後清掃。鶏舎は出荷後消毒のため1ヶ月ほど休ませます。抗生物質は決められたワクチンに微量に含まれているもの以外は、基本的に不使用、ホルモン剤も使用しません。 以前自営で鶏卵やブロイラーの生産をやっていた農場責任者杉江さんのお話では養鶏業で採算をとるには鶏の生存率を高めエサとなる飼料代を抑えていくことが必要だそうです。一般のブロイラーの生存率が98%と言われますが、エサには早く大きくできる動物性原料を入れ、出荷の1週間前まで抗菌剤を混入させます。こうして病気が出る前にいかに太らせ出荷するのかがポイント。「鶏一番では薬剤を使用しないし、通常より長期間飼育するので飼育が難しい」そうです。病気が出た鶏を群れに長く放置させないため日常的な見回りは欠かせませんが、開放鶏舎は生き物としての鶏には良い環境でも、飼う立場だと外部から病気やほこりの進入などのリスクがありとても気を使うそうです。 同期の人間で畜産業を続けている人がいない中で、現在杉江さんは湯浅商事の社員として働いています。杉江さんは「日本の畜産は補助金など受けることがない反面、設備投資の金額が大きく病気が発生したときなど個人経営だとリスクがきわめて大きいのです。こうした現状では、企業とタイアップして行くやり方でしか日本の畜産業は生き残っていけないと考えています」と話されました。

 

工場で解体の様子を見る

 

 その後移動して、静岡県浜松市にあるとり一番の事務所と工場に寄りました。工場は朝7時から作業が始まります。鶏は前日に運ばれ一晩様子を見た後に屠殺され9時から解体のラインに乗せられ、午前中に解体され部位別に分けられます。午後からは小分けされたものが真空包装されすぐに冷凍されます。食肉の中でも鶏肉は特に鮮度低下が起こりやすいものですが、一貫生産・処理のため短時間で加工されます。2年前に入れた急速冷凍庫によって、肉汁(ドリップ)の発生も改善されたそうです。 この日は解体作業が終わっていましたが、特別に工場長の足立さんの作業の様子を見せていただきました。足立さんは手馴れた様子で、包丁一つで見る間に丸体の鶏が部位ごとにきれいに分けられていきました。鶏一番の鶏は1羽3.2~3.5㎏の目方があり、羽をむしられると500g位目方が減ります。分けられた部位ではモモ肉が15~16%、ムネ肉が14%、ささみが5%、手羽が6~7%で残りが内臓やガラとなるそうです。ムネ肉はそのままでは余るため、この肉を主に使って加工品を開発しています。 駆け足で一日1羽の鶏が成長して鶏肉になっていく様子を見学しましたが、私は現場ではさまざまな工夫により会員の皆さんの要望に応えた生産・流通を行っていることを知りました。同時に国内の畜産業が置かれている難しい課題も感じました。 注:鶏一番はその後2012年に親会社湯浅商事さんの関連会社「シガポートリー」浜松支店となりました。

 

<取材:2010.11.11>

(有)まきば 

もち豚の産地の新潟県魚沼で加工する「まきば」と

健康豚生産者の桜井さん

まきば豚挽き肉のパック詰め

まきば精肉風景

まきばの子豚ちゃん

「まきば」の精肉現場

 

 新潟県南魚沼市にある有限会社「まきば」。社長の桑原家達さんは養豚業から転職し、魚沼豚の精肉や販売を行っています。営業担当は息子の一成さん。元気な青年で魚沼豚の美味しさを全国に広げ、最近では飲食店などから引き合いが増えてきました。 「まきば」では精肉と惣菜を手がけています。ここで精肉をしているのは精肉部長の中島さんたち2名のスタッフ。中島さんの手馴れた手つきと話しぶりからは精肉業を始めて45年(2010年現在)の職人気質を感じる方です。「まきば」では納品された豚肉を色、脂肪と赤身の割合、肉の締まり具合などを入念にチェックして作業を行います。中島さんの話では“健康豚”は締りが良く、肉も適度に脂身が入って上質の肉とのことです。ブロック肉のかたまりについた表面の脂は1cmほど残してとりますが、その脂身をつまんでみると人の体温でスッと溶ける程の柔らかさ。ピンク色の肉の色つやも、健康に育てられた証です。 「まきば」ではパーツごとに納品された“健康肉”を細かく解体し、共同購入向けの規格にパック詰めします。小パックに分けられた肉は手作業で袋に詰められ、真空包装されます。包装したものは金属検知器を通した後、最後に肉眼で異物の混入などを調べて、すぐに冷凍庫に入れます。

 

「まきば」の惣菜作り

 

 「まきば」ではみどり共同購入会の会員の皆さんに向けて、豚肉や上田さんの牛肉のパック詰めの他、毎月1回の割合で惣菜をお届けしています。肉は魚沼健康豚を主体にした国産の豚肉を使用しています。惣菜には化学調味料などは使わず、お求めやすい価格でできるだけ国産の原材料を使うようにしています。椎茸や山菜、味噌など地元のメーカーや地元で採れた食材なども積極的に取り入れています。 「まきば」の惣菜のおすすめ商品の一つが焼豚。成形した肉を調味液に3日間漬け込み、スチームの熱でじっくり焼き上げます。モツ煮込みは臭みがないよう生モツを2度ボイルし、臭みを取り柔らかな食感に仕上げています。生ハンバーグには新鮮な豚肉をミンチし、豚ロースの背脂をふんだんに混ぜ込むことでジューシーな旨みを出しました。これら惣菜の加工は肉の扱いを知った肉屋さんだからできる商品です。

 

“健康豚”を生産する桜井さん

 

 「まきば」の生産者の一人として“健康豚”をみどり共同購入会の会員の皆さんにお届けしているのは桜井富佐子さんです。古くから提携していた清塚さんが2007年に廃業された後を継ぎました。魚沼では「越後もち豚」のグループがありますが、桜井さんもその生産団体のグローバルグループの飼育プログラムに沿って飼育しています。豚の品種は発育が良く多産型のランドレースと飼いやすく肉や脂肪が柔らかいダイヨークを交配させ、赤身が多くサシがあり美味な肉質のデュロックをさらに交配させた三元豚です。柔らかくおいしい豚肉をつくるために長年かけて育種された豚肉です。 交配させた豚を自家配合の良質なトウモロコシ・大豆油粕が97%(生体が70kgを越える肉豚の場合)を占める餌を与えます。業者任せの配合飼料ではなく、原料別に豚の状態に合わせて飼料を設計します。これは生産者が栄養学の知識がないとできないことです。植物性原料は豚の生育が悪くなり餌代・人件費などはかかりますが、その分美味しい肉質となり、また、原料に油脂の添加をしていないので味が雑になったりいやな臭いがないのも特長です。 抗生物質は養豚専門獣医の指導のもとに、子豚の時期に予防目的で投与するために一般の飼育の1/3以下に抑え、密飼いは避け180日から200日と通常より飼育期間をかけてじっくり育てます。現在、生後4ヶ月以降は使用していません。 “健康豚”はよく脂身も甘いといわれます。それは豚の品種改良と肥料の設計の他に八海山から流れる豊富な雪解け水の恵みによるものです。豚の体内の7割は水。山間の豚舎は年間の半分が雪で閉ざされる場所にあり、飼育される豚は汚染されることのない清冽な水を与えられて大きくなります。魚沼市旧広神村の山の麓の養豚場の周りは美味しい魚沼米で有名な田んぼが続きます。こうした環境の下、桜井さんの手によって愛情こまやかに育てられた豚たちの肉が会員の皆さんに届けられるのです。

<取材:2010年■>

山のハム工房「ゴーバル」

アジアの人々との共生を目指すゴーバル、

そこは小さな山村にありました

ゴーバルの工場前で桝本さんご夫妻

桜の薪を使って薫しハムにします

ソーセージ作り

炭や桜の薪を使っての燻製作り

 

 ゴーバルのハムやウインナー作りは毎週月曜日から金曜日までの5日間、曜日ごとに仕事の種類を変えて行われます。私(金谷)が訪れた日は火曜日でした。ソーセージ作りが終わってハム製造の日でした。豚の枝肉は骨抜きされ、2週間ほど専用のピクル液につけて寝かされ、前の晩に流水でいったん塩抜きして成形されます。翌日、成形された肉は燻煙室に入れられ炭火で肉の中心温度が70℃になるまで4〜6時間かけてじっくりと熱をかけられます。その後、肉に色と香りが付くまで約2時間燻煙されます。私はこの日夜7時近くなって工房に到着しました。すぐに燻煙室の中を見学させてもらうとブロックにされた豚肉がいっぱい吊されて、薪の煙で燻されている真っ最中でした。 私も趣味で燻製を作ることがありますが、その際は原木を細かく砕いた市販のチップを使って燻煙しています。ゴーバルでは薪をそのまま燃やしていたのには驚きました。工房長の田中亮太さんのお話では、チップに比べ薪を使うと食味が丸くなり煙のなじみが良いのだそうです。薪は豚肉のハム作りに一番合った甘味が出る地元で採れる桜の木を使用し、加熱用に炭を併用します。炭は近隣の愛知県足助町のクヌギや串原地区の間伐材などを組み合わせて使っています。

 

シンプルな原材料と品質の高い肉

 

 ゴーバルの製品の副材料は限られています。ハムに漬け込むピクル液にはまろやかさのあるモンゴル産の岩塩とフィリピン・ネグロス島の黒砂糖、香辛料として黒コショウ・ローレル・コリアンダー・マジョラム・杜松子などをブレンドしたものだけを使っています。ウインナーはこうした原材料に羊腸や地元で作った野菜やトマトピューレーが加わります。 こんなにシンプルな原材料にもかかわらず滋味溢れる味わいとなるのは、主原料の豚・鶏肉の品質の良さと燻煙を始めとする製造技術の高さからでしょう。工房創設以来30年にわたって、ゴーバルでは一切の添加物を使わない製品を作り続けてきました。毎週約20頭の豚を使用しますが、豚は地元の養豚家の跡を継いだ代表の石原潔さんの息子・弦さんが飼育しています。肉質が柔らかく臭みがないブランド豚「美濃ヘルシーポーク」は植物性の餌だけを与え、豚の健康増進のためにEМ菌を添加しています。農場では遺伝子組み換え飼料も使用していません。鶏は愛知・岐阜・三重県の愛農会の卵を産み終えた鶏肉を使用しています。抗生物質・遺伝子組み換え未使用のエサで育ち、飼育期間が長いため肉に締まりがあり、噛むほどに味わいが出る鶏肉です。

 

ゴーバルの生い立ち

 

 ネパール語で牛糞を意味する言葉が“ゴーバル”。糞はやがて大地に戻り、厳しい自然で生きていく生活の香りがするこの言葉は工房の生き方を示しているようです。山形県小国町にある全寮制の高校がキリスト教独立学園。内村鑑三の精神によって設立・運営された学校です。この学校の卒業生だった3組の若者が夢を描き、石原真木子さんのお父さんが住む旧串原村で羊や牛を飼い、生活の糧として始めたのがハム作りという仕事でした。前身の「アジア生活農場ゴーバル」が生まれた1980年のことでした。「山のハム工房」をベースに平和を願い、アジアの人々と日本の農村との交流、世界の草の根の人々と出会う夢と理念を持って出発しました。 旧・串原村に入った当初は、多いときは20人を越える人たちが共同生活を行い。お風呂は冬は沸かすのに2時間かかるという五右衛門風呂で、合宿生活のような毎日だったそうです。石原潔さんからはアジアと生活と農業を考える農場作りは今だ夢半ばと聞いていますが、最近では不登校の子供をはじめ全国から様々な個性的な若者たちが訪れるようになりました。 現在、ゴーバルのスタッフは13名、仕事と生活が分断された都会のハム工場とは違い「山のハム工房」はスタッフの一人ひとりの生活を包みながらゆったりと時が流れていきます。昼食はみんなで一つのテーブルを囲み、お客さんは工房ぐるみでもてなされます。お客さんが多いのは創設者の石原・桝本夫妻の人間的な魅力に加え、山の暮らしのリズムが人々を引きつけるのでしょう。確かなモノ作りに溢れた「山のハム工房」。また、再訪したいという希望を持って、私はここを後にしました。

<取材:2007年9月2日>

​知床興農ファーム

北の大地で理想の畜産を模索する「知床興農ファーム」

↑スタッフの皆さん 左が現代表の清水信吾さん

↑牧草地を再利用した放牧豚の様子

↑興農牛は角が生えたオス牛です 左手は本田廣一さん 

農場の成り立ちと肉牛の生産

 

 農場を訪れたのは8月16日のことでした。知床興農ファームは知床半島のつけ根・斜里町の隣、標津町古多糠にあります。私は学生時代2度ほど農場を訪れたことがあったのですが、実に36年ぶりの農場訪問となりした。 事務所の中で知床興農ファームの前身団体・興農ファーム代表の本田廣一(ひろかず)さんと専務の清水多恵さんにお会いしました。農場創設時のメンバーのお二人です。農場を牽引してきた本田さんは日本大学農獣医学部で獣医を目指していましたが、1960年末の学生運動の流れに身を投じ、運動の中でより地に足が着いた生活を志すようになります。1976年、生活や生産だけでなく農業を主体とした学びの場として、興農ファームの前身の興農塾を設立します。資金面で仲間の支援を受けながら、海と山と川があるこの地を選択しました。標津町は一面牧草が広がる日本有数の酪農地帯ですが、本田さんたちが入植した当初牧草に力強さがないことを感じていました。気温が低いだけでなく化学肥料の多用によって土地が疲弊していたからです。興農ファームでは酪農を主体に、堆肥をふんだんに牧草地に投入する「有畜複合農業」を柱とした農業をすすめます。有機農業を学んできた本田さんたちは牧草地にも農薬や化学肥料を使用せずに規模拡大を進めていきますが、自前のミルクプラントの稼働に失敗したことで、肉牛生産に転換します。未去勢の若いホルスタインの牡牛を飼育するという日本で初めての試みでした。霜降り肉にはサシを入れるためにホルモン剤投与が必要となりますが、不使用で飼育できる健康的な赤身肉の生産に挑戦したのでした。

 

全国で注目を集める実践と新会社の設立

 

 興農ファームでは寒冷地の特性を生かした農法として「低投入」「内部循環」「自然共生」の3つを鍵とした輪作体系を模索。そのような考えから飼料の自給を進め9割以上の自給率を達成し、その大半は北海道内で農業・食品残渣物を有効利用します。牧草類の割合は一般的な肉牛生産で平均5%前後なのに対し約23%にもなります。98年から国産和牛の親の血が流れるアンガス牛を導入。2003年から放牧養豚も始め、食味の良さから豚肉の売上を伸ばし、牛肉と同じくらいの事業高となりました。現在、牧草地も含め137haの面積に牛700頭、豚700頭を飼育しています。生産物は全て産直ルートで直接販売、肉牛を導入した時には九州の生協の資金援助が大きな力となりました。興農ファームの実践は道内だけでなく全国で注目され、本田さんは有機農業推進や有機畜産のオピニオンリーダーとして広く知られるようになりました。しかし、前例のない試みは事業の失敗を生むこともあります。福島原発事故による牛肉生産の落ち込みが回復したばかりの昨年、道東地方を襲った猛吹雪で牛舎が破壊され通行止めでスタッフが給餌できず、牛の死亡事故が相次ぎました。過去、興農ファームはこうした危機を全国の有機農業仲間や取引先の支援の中で乗り切ってきました。2015年6月に新会社の知床興農ファームに経営を移行し、清水多恵さんの息子の真吾さんが代表となりました。お会いするとまっすぐな瞳の働き者の好青年でした。

 

興農ファーム創設者・本田さんの思い

 

 代表は変わったけれどスタッフの体制は変わりません。今年69歳となった本田さんも新体制の下、意気軒昂でした。北海道有機農業研究会の代表や日本有機農業研究会の幹事を歴任され「有機農業基本法」制定へ尽力された本田さんは今の産直のあり方に物足りない思いをもっておられたようです。1970年代から草の根の力で広がった“有機”の理念に戻り、もう一度生産者と消費者の結びつきを強めていく必要があると言われます。そのために本田さんは地域の自給力を高めたい。まず標津町内で流通を拡大させたい、そのことが道内や日本の自給率向上につながると言われました。標津町は入職当時7600名いましたが現在人口が2/3まで減っています。農場のスタッフは23名ですが、将来100名雇用することを目標にしています。家族4人で計算すると町の約1割の人が農場に関わりを持って生活することになり、標津町にとってもなくてはならない基幹産業にもなります。そうしたこともあって昨年、ウインナーなどの加工工場を設立したそうです。また、本田さんは泥炭地である根釧台地が豊かな食糧生産の可能性を秘めていると言われました。地球温暖化の影響や堆肥の投入によってこの地域の地温は上ってきており、土壌が改良され畑作ができる環境が整ってきたとのことです。今後はこの広大な土地に小麦、なたね、じゃがいもなどの作付けを行いスタッフの食料だけでなく、道内の自給率向上にも取り組んで行きたいとのことでした。

 お話をお伺いした後、農場を案内していただくともうお昼。少し離れた宿舎に移動して興農牛を使った美味しい牛丼をご馳走になりました。見覚えがある建物は興農塾のワークキャンプで私が宿泊した場所でした。懐かしい!当時21歳の私は、自分の将来に漠とした不安を抱えながら2週間ほど援農をしながらここで過ごしたのでした。あれから36年。本田さんたちは当時の思いを持続し着実に地域の中で力をつけて来られたのでした。私も元気をもらって、農場を後にしました。

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