(株)セイアグリーシステム 伊勢豊彦さん

セイアグリーシステム社長の経歴

 

 セイアグリーシステム社長の伊勢豊彦さんは1933年生まれ。生涯を通して卵と縁がある生活を過ごしています。お父さんは養鶏場を営んでおり、伊勢さんは農学校から農林省の岡崎種畜牧場で鶏の育種、改良を行いました。その後農林省の技官に赴任した後、1977年に郷里の富山県福岡町(現、高岡市)で本人も養鶏業を創業することになります。 日本の近代養鶏は1952年頃に始まりました。当時は50〜200羽くらいが飼育の適正規模と言われていましたが、その後は規模拡大が始まります。現在は一ヶ所で10〜15万羽の飼育、10段ケージの窓のないウィンドレス鶏舎による飼育が当たり前になってきました。その結果、卵の値段は60年にわたってコストダウンを続け物価の優等生と言われてきました。一方で、流通する鶏卵の8割がサルモネラ菌に汚染されていると言われ、今では鳥インフルエンザの脅威に晒されているのが日本の養鶏の実態です。

 

セイアグリーシステムとその卵

 

 セイアグリーシステムではオールイン・オールアウトという飼育方法をとっています。1つの鶏舎に全て同じ大きさの鶏を入れ、15ヶ月で鶏を入れ替え、鶏舎を徹底的に洗浄・消毒することによって病原菌を常駐させない方法です。農場は大規模化の道をとらずに、能登半島15ヶ所に養鶏場を分散させ1つの鶏舎には500羽から多くて5000羽の飼育にとどめています。創業してからサルモネラ菌が検出されたことはなく、生卵を使った卵かけご飯でも安心して食べられる卵です。 今の時代では異端ともいえるこうした飼育法は、卵に一生をかけてきた伊勢社長が、鶏の立場で“卵”を考えた結果とのことです。卵の生産コストの2/3は餌代だそうですが、セイアグリーでは3割ほど餌代のコストが上がっても、鶏が雛を作っていけるだけの栄養価がある「種用」の卵の栄養基準でエサを与えます。自然の性質、栄養を損なうことなく配合した飼料で強健な体質にした親鶏が生んだ卵がセイアグリー卵です。ここには抗生物質や抗菌剤などの残留もありません。また、セイアグリーシステムでは平飼いではなくケージ飼いにこだわります。それは鶏という生きものは序列を作り適正規模を超えた飼い方をすれば鶏のストレスが増えたり、排泄した糞が原因で起こる病気の発生などに問題を感じているからだそうです。

 

“卵”の世界の問題点

 

 伊勢社長は日本の卵の世界では売る側に立った宣伝が一人歩きして、本当の商品価値が確立されていないと言われました。本来の卵の品質とは関係がない赤玉や特定の栄養成分を配合したヨード卵など特殊卵がもてはやされ、付加価値をつけた実態以上の価格で販売されており、卵に関して消費者に誤った認識がつくられてきたからだそうです。野菜などでは有機認証制度などが整備され、表示の中でも一定の基準の中で安全性や品質が求められるようになりましたが、卵の世界にはそれがありません。 また、伊勢社長は卵を洗卵することも問題だと言われます。卵は生まれたときにクチクラ層を作り卵の中に細菌を侵入させず自ら身を守る力があるにもかかわらず、一般に流通している卵は次亜塩素酸ソーダの溶液に漬けてクチクラ層を破壊します。その結果、卵の呼吸がとまり、鮮度は著しく劣化します。サルモネラ菌汚染が蔓延してきた結果、洗卵や賞味期限表示が行われるようになりましたが、セイアグリーでは美味しさと風味を保つために無洗卵で流通させています。 セイアグリーシステムは「良い食品づくりの会」という団体のメンバーです。この会は店頭で当たり前のように安全な商品が並ぶことを願って作られた、日本の良心的な生産者やメーカーの集まりです。良い食品はきちんとした品質のものが適正価格で販売され、品質が良いため添加物を使う必要がありません。伊勢社長自身が過去に鶏の飼育をやってきて、餌に添加物を使うと鶏の骨や腸の状態がおかしくなっていることを体験してきました。添加物は「量」を問題にするのではなく、使ってはならないものだと強調されました。息子さんが経営する菓子工房「フェルヴェール」では洋菓子に添加物や代替材料を一切使用していません。みどり共同購入会ではセイアグリーの卵と共に「フェルヴェール」のお菓子や卵焼き・卵豆腐などの加工品も会員の皆さんにお届けしています。

<取材:2007年5月31日>

セイアグリーシステム伊勢社長

卵は重量別に選別されます

「卵のことは鶏に学んだ…」

独自のシステムを作ったセイアグリ健康卵

光をあててひびや血卵を調べます

 
 
 
香林農園 腰山通彦・真理さん

 北海道帯広市の香林農園とは今年7月に提携が始まった生産者です。帯広市は十勝地方の中心にある人口約17万人の都市ですが、碁盤の目になっている市街地の道路をしばらく走るとさすが北海道。見渡す限り広大な風景が広がります。香林農園の農場は急峻な日高山脈の一つ十勝幌尻岳の麓、拓成町にあります。

 

スローな風景が展開する農場

 

 この日私(金谷)は昼前に農場を訪れ、奥さんの真理さん自家製のチーズたっぷりの手作りピザをご馳走になった後、飼育している様子を見学しました。香林農園の敷地は山林を含めて約60町歩ありますが、敷地内には時々熊も現れるとか。なかなか山羊や牛の姿が見えません。「今日は暑いので日陰で涼んでいるのだろう」と案内してくれたご主人の通彦さん。5分ほど歩いた牧草地の一画に2頭の馬がいました。以前、馬車を使っていたのでその子どもの馬を今、腰山さんが“趣味”として飼っているそうです。その近くの木陰に山羊と牛がいました。山羊は約30頭、牛は3頭ほど飼育しているそうです。山羊は自分たちで繁殖させ、搾った乳はどちらも全てチーズの原料になります。
 山羊や牛はシーズン中は放牧され夕方になるとねぐらに戻り、自分たちで移動します。牧草地は農薬や化学肥料を使用しません。冬場は牧草地から収穫した乾草を与えます。乾草の一部は購入し、草の他にはビートパルプ(さとう大根の搾りかす)をわずかに与えるだけで、飼料は地元で獲れるものでまかなっているそうです。北海道でも牛の放牧風景を見ることがめっきり減りましたが、家畜として幸せに暮らしている様子がわかりました。見学を終え、通彦さんにチーズ作りのお話をお伺いしました。周りは草原に針葉樹が連なる開放的な風景。まるでヨーロッパの山麓に来たような感じがしました。

 

腰山通彦さんの歩み

 

 腰山通彦さんは、栃木県出身。高度経済成長の波に乗り切れず、牧歌を求めて北海道に移住。酪農実習の最中、1984年に拓成町で山羊のチーズ製造を目指した「拓成ヤギ牧場」のオープンに誘われ参加。当時の日本ではチーズといえば熱を加え溶かして殺菌したプロセスチーズのことであり、ナチュラルチーズが珍しい時代でした。山羊乳のチーズはさらにマイナーな存在とされ、なかなか受け入れてもらえませんでした。チーズ作りだけではやっていけないため、1987年ハーブや野菜を販売する香林農園を始めました。その後1996年に「拓成山羊牧場」は解散し、香林農園がそれを受け継ぎ牛乳のチーズ製造の許可も得ました。 腰山さんは何度かフランス各地の製造現場を訪れ、試行錯誤しながらチーズ作りに改良を加えました。農業大国でもあるフランスは地域や農家ごとに独自の味わいをもったチーズが作られ、原産地や伝統的な製法を守るためにワインと同様の格付けがあります。チーズ工場ではなく生産農家が作ったチーズの方が、より高く評価されます。フランスではカビが生えたチーズほど熟成されコクが出て美味しいとされ、複雑な味わいを出すために国内用のチーズには原乳を殺菌しません。腰山さんは技術だけでなく、その背景となる生活や文化にも興味を抱いたそうです。 やがて日本でもワインブームが起こり、当時ナチュラルチーズは珍しかったため、空港の売店などに置いたチーズは飛ぶように売れたそうです。日本でも外国の本物のチーズに接する機会が増え、山羊乳のチーズも知られるようになり現在は香林農園のチーズを理解する人たちがリピーターとなっています。

 

香林農園のチーズ作り

 

 香林農園では夏場は山羊乳と牛乳のチーズ作りを交互に行い、冬場は牛乳のチーズ作りを1日おきに行います。山羊の赤ちゃんが生まれないとミルクを絞れないため、山羊のチーズは夏〜秋の限定です。香林農園のチーズは季節によって乳質も違うので味が変わり、チーズの種類も変ります。できた製品は真空包装をしていないので、熟成が進み時間と共に味が変ります。 山羊乳のチーズはシェーヴルと呼ばれ、今では国内でも20ほどの工房で作られるようになりました。山羊は牛より個体が小さいので飼育しやすく、牛乳のチーズでアレルギーがある人も、山羊乳のチーズだとアレルギーを起こしにくいと言われています。フレッシュなものは酸味とクリーミーさがあり、熟成すると酸味が和らぎコクやうま味が増し、牛乳のチーズと違った魅力があります。香林農園で熟成させて作る「ポンヌプリ」は時間が経つと木の実のような堅さとなり、更におくと岩石のような堅さとなります。それでも、それぞれに違った美味しさを楽しめます。腰山さんはそうしたチーズの特徴を知ってもらい、いろいろな声を届けてもらうことが作り手として何より励みになると話をされました。 農園を出発したのは17時過ぎ。地元でタウン誌を作っていた人と出会い、東京農業大学を出て純米酒作りに賭ける女性の杜氏の方も訪ねてこられ初対面にもかかわらず古代米を使ったお酒をいただきました。腰山さんは「チーズの評価は、その背景としての生活への評価です。今後はみなさんが訪れゆったりとできる景観作りにも力を入れていきたい」と最後に話をされました。私もこの農園を訪れ、生活や風景が織り成す一端として香林農園のチーズが存在していることを理解しました。こうした世界が各地に広がっていけば、この国の農村や山村はもっともっと豊かになっていくと思います。

<取材:2012.8.18> 注:この時お会いした女性杜氏の方は京都丹後半島の向井酒造の酒蔵の娘さん・長慶事久仁子さんでした。その後古代米を使ったフルーティなお酒「伊根満開」を毎年桃の節句に合わせてみどり共同購入会でも取り組むことになります。

牧場入り口に小さな売店が目印

羊は数頭の牛と共に牧場で自由に動きます

山羊を飼い育てる、北の小さな工房が作る

シェーヴルチーズ

腰山さんご夫妻

チーズ工房白糠酪恵舎 井ノ口和良さん

酪恵舎の成り立ち

 

 動物医薬品の販売を経て農業改良普及委員の道職員として働いていたのが、酪恵舎代表の井ノ口和良さんです。井ノ口さんは帯広畜産大学時代に茶路めん羊牧場の武藤さんの後輩にあたりますが、その後白糠町へ赴任して武藤さんと再会することになります。4Hクラブという農業後継者たちのサークルで地元の産物を生かした事業化の話がもち上がります。井ノ口さんは、北海道は酪農王国といわれながら乳製品と親しむ文化が希薄なことを以前から感じていました。それは北海道の郷土料理でも乳製品を使ったものがほとんどないことにも現れています。ヨーロッパなどと違い国策として酪農が始まった日本との歴史の違いを感じさせる点です。 酪農家が搾った牛乳を地元で流通できないシステムの中で、牛乳の恵みを地元の人たちに返していくには、加工品のチーズ作りがよいと考え、井口さんは転職してチーズ職人になる道を選びました。道内のチーズ工場にアドバイスをもらっても満足なものが作れず、単身で4度イタリアに渡り、ピエモンテ州のチーズ工房で修行を積んできました。 2001年4月、酪恵舎は4Hクラブのメンバーの人々を中心に20人が出資して生まれました。株主が酪農家という日本では珍しい事業形態です。酪恵舎では酪農家はよりよい原乳を生産することに力を注ぎ、酪農とチーズ工房との経営は分離して行うようにしています。

 

チーズを通して結びつく人と地域

 

 酪恵舎のチーズは国内でも高い評価を受けています。2005年には「ALL JAPAN ナチュラルチーズコンテスト」でモッツァレラとロビオーラが優秀賞を受賞しました。価格も国産のチーズ工房が作るチーズとしては決して高くありません。 井ノ口さんは、「このチーズ工房は私のものではない。地元の皆さんの支援によって生まれたもので、食べた人が幸せな気持ちになるチーズ作りがしたい」と話をされます。酪恵舎のチーズの取引先の半分は地元の料理店・直販施設・お店などです。チーズの取り組みを一過性のものにするのではなく、口コミで徐々に販路を増やしてきました。酪恵舎ではチーズを通して直接消費者と結びつく白糠チーズ友の会「グッチーズ」がチーズの普及を支え、会員は400名を超えました。

 

井ノ口さんの夢

 

 イタリアは日本と食文化は良く似ていて、野菜や魚もたくさん食べる国だそうです。デザートとして作られたフランスのチーズ、輸出用にハードタイプのものが作られてきたオランダのチーズと違って、イタリアのチーズはもともと日常的に食べる料理素材の一つとして普及してきた歴史があります。 井ノ口さんの夢は白糠の特産品を生かしてチーズと合う郷土料理と呼べる料理を作っていくことです。イタリアでは海産物もたくさん食べられチーズとの相性も良いそうです。白糠町は釧路市の隣の人口の少ない町ですが、山と海そして川に囲まれ山菜や海産物などの恵みも多いところです。日本でチーズの歴史は浅いけれど、日本的な視点で本場にないものを作り上げていくことを考えています。 「グッチーズ」ではチーズ料理の本「時間(とき)を食べよう」を出版し、さまざまなチーズの料理のレシピを提供しています。ユニークなのはこの本には、プロの料理人のレシピと共に酪恵舎のスタッフや一般会員の方から募ったレシピがたくさん掲載されていることです。 私(金谷)は、取材に立ち寄ったこの日の昼食に白糠町のレストラン「はまなす」でモッツァレラチーズを使ったトマトソースのパスタとホワイトカレーを食べることができました。140種を超える和洋・中華のメニューのおすすめとして酪恵舎のチーズ料理が並んでいました。マスターの谷口さんは、グッチーズの名誉顧問兼チーズ料理教室の講師とか。生産者と職人と料理人が心を合わせる町。こうした人の結びつきで成長してきたこの地ならきっと井ノ口さんの夢が実現される日は近いことでしょう。

 

<取材:2007.8.17>

攪拌した牛乳の温度を測っています

酪恵舎のチーズ作り

地域の人に育てられた、地域の恵みを生かした

北のチーズ工房

チーズ作りへの熱い思いを語る井ノ口さん

チーズ工房白糠酪恵舎  井ノ口和良さん その2

 共同購入会の提携生産者は全国に広がっていますが、広い北海道の中でも道東地区にはいくつかの生産者が集中しています。茶路めん羊牧場から車で5分の距離にあるのが、チーズ工房「白糠酪恵舎」です。4年前にここを訪れた時はこじんまりした工房でしたが、今回8月17日にお寄りした際には、その隣に何倍もある新工房が建てられていました。

 

白糠酪恵舎のチーズ製造について

 

 新工房は8月6日に稼動したばかり。そのため、敷地の造成工事はまだ途中で事務所の中も整理が終わっていない様子でした。14時に着きましたが、食品の製造現場は午後遅くなるとラインが止まり洗浄作業が中心となるため、すぐに加工場に案内していただきました。 ここで「白糠酪恵舎」のチーズ作りの一般的な工程について説明します。朝一番に近隣の酪農家から原乳を集め、63度で30分牛乳を低温殺菌処理します。原乳は一定の温度に冷やした後、チーズ製造機のバットに入れられ、乳酸菌を加えて熟成されます。その後、牛乳を固める擬乳酵素と呼ばれるレンネットを入れしばらく静置すると、30分ほどで乳が固まりカードという状態となります。それを攪拌し、柔らかいチーズは大きく、長く熟成するチーズは小さくカットしカードの水分を抜きます。その過程で出た水分はホエー(乳清)と呼ばれ、茶路めん羊牧場の飼料などに利用されます。カードはチーズの熟成期間が長いものほど長く攪拌されます。フレッシュタイプのチーズを除いて、カードはモールドと呼ばれる型枠に入れられた後、プレスされそれぞれのチーズの形が作られ成型されます。成型されたものは塩漬けされ、7~10℃、湿度約85%の熟成庫で熟成されます。熟成庫の中ではチーズは定期的に裏返され、表面についたかびを取り除いたりして出荷の日を待つことになります。 この日はモールドに詰めたテネレッロ・シラリカの発酵の度合いを確認するためpHの調査が行われ、塩漬けまでの工程を見学させていただきました。大きな円柱型のチーズは直径40㎝位の大きさがありましたが、スタッフの皆さんによって手際よく作業が進められていました。あとは、180日後の熟成を待って出荷に備えるそうです。

 

新工房でのさまざまな試み

 

 事務所に戻り代表の井ノ口和良さんにお話をお伺いしました。新工房は設計から約1年かがりで建設されたもので、従来の工房では1基400リットルのバット1つしかありませんでしたが、新工房では800リットル、500リットルの2つのバットがあり、3倍以上の生産設備を備えることになり、原乳の生産農家も1軒から3軒に増えました。 新工房では設計段階から考え、従来の製造施設にない特色があります。一つは、タンクローリーで集乳された原乳は圧力をかけ上下のパイプを通って貯乳タンクに運ばれますが、この方法だと原乳が傷むために斜面を作ってタンクローリーから貯乳タンクに自然流化するようにしました。二つ目は追熟庫の壁を通して井戸水の冷気が当たるようにして、一定の温度に保つようにしました。電気を使った空調設備だと風が直接当たり、チーズの乾燥が進むためです。三つ目は微生物の働きを使った独自の浄化システムを作って排水をきれいに浄化し、その水を放流するようにしたことです。 農業改良普及員だった井ノ口さんがチーズ作りを志したのが17年前のこと。イタリアで修行した後、白糠町の人々に支えられチーズ製造を始めてきましたが、この間、いくつもの賞を受賞し白糠酪恵舎のチーズは品質の高さと美味しさが道内外に知られるようになりました。販売額も右肩上がりとなり、営業専門の担当者を置き現在11名のスタッフを迎えています。

 

アジア発のチーズに挑む井ノ口さんと白糠酪恵舎

 

 井ノ口さんはいつお会いしてもチーズ作りの魅力を楽しそうに語ってくれます。そんな職人気質がある井ノ口さんに私は「規模を広げ現場を人に任せると、それ以外の仕事が増えてチーズ作りができなくなるのではないでしょうか」とちょっと意地悪な質問をしました。すると井ノ口さんから「チーズ作りでは生産規模が小さくても作る手間はあまり変わらないのです。新工房は生産の基軸ラインとしてスタッフに任せ、自分はいままでの工房で新しいチーズの試作をすすめるつもりです」という答えが返ってきました。 白糠酪恵舎のチーズはイタリアで学びヨーロッパの人にも美味しいと評価を得るチーズを目指していたそうですが、今後はアジアの風土に根ざした乳酸菌を使用することで、独自のチーズを作っていくそうです。蒸した大豆を使用した加工品では、発酵菌によって納豆になりテンペになります。チーズ作りも乳酸菌によって風味や香りが全く違う製品になります。これから作られるチーズはどんなものになるのでしょうか。やはり井ノ口さんは職人だったのです!聞いているとワクワクしてくる話でした。また、今後はバターやチーズ作りの副産物として出るホエーを使ってアイスクリームなどの製造も予定しているそうです。 試行錯誤は続けられており、半年前から「トーマ・シラヌカ」は乳酸菌を変えてみて、美味しさがアップしたそうです。といっても、新工房ができたばかりの現在、納得できる商品が作れず廃棄処分にすることもあるそうです。新工房での移行がスムーズに進み、井ノ口さんが古い工房にこもる日々が続くとき、従来の枠を超えた新しいチーズとの出会いが待っていることでしょう。 <取材:2011.8.17>

熟成庫に置かれたチーズ

チーズ作りの様子

新工房設立を機に新たなチーズ作りに挑む

「白糠酪恵舎」井ノ口さん

橋建設されたばかりの新工房と井ノ口さん

山三商店 山内明三さん

漁業が健在な町、白糠

 

 北海道・白糠は林業と酪農と漁業の人口約1万人の町です。町の両隣は釧路市ですが、合併せずに町の単独行政を選択してきました。シラヌカという地名は波が磯を越え、しぶきが立つ様子を表わし、白糠漁港に注ぐシラリカップ川付近を中心に岩磯地帯の海浜から集落が育ったといわれています。 北海道の太平洋に面した漁港では釧路に続き、白糠は広尾と並ぶ漁港で、現在も200世帯弱の人々が漁業を営んでいます。白糠漁港では3本の川に囲まれ、遡上するために沿岸に寄ってくる秋鮭やシシャモは食味も良く品質も高いことから全国から引き合いがあります。その他漁港には柳タコ、スケソウダラ、マス、アブラコ、カニ、カレイ、さんま、ホッケ、ツブ貝など豊富な魚介類が水揚げされます。

 

山三商店を訪ねて

 

 私(金谷)が白糠町で水産加工業を営む山三商店の山内明三を訪ねたのは、2007年の8月17日のことでした。山三商店の作業場は白糠町の中心部の一角にありました。この日は市場も休みでスタッフの皆さんは仕入れた魚の加工作業をしていました。大きな樽の中にはサンマが並べられ、昔からの方法で米糠と塩、奄美の黒糖焼酎だけで「糠サンマ」が作られていました。山内さんは「自分たちもふだん飲めないような良い焼酎を使っている、材料は一級品だよ」と笑いながら話されました。北海道はこれから鮭漁のシーズンに入りますが、鮭の山漬けは地元で昔からの名産品です。この日は山漬けに熱を加え柔らかくしてほぐした「山漬けほぐし鮭」を作っていました。市販の鮭フレークとは熟成期間も違い見るからに美味しそうでした。 詳しいお話を聞くために裏手に回ると、目の前に海が広がっていました。山三商店は兄弟3名で魚の卸の会社を営んでいましたが、1998年に明三さんが独立。現在は主に3名のスタッフが仕事を行っています。こうした仕事は人数が多ければ良いものでなく、人が多いと仕事が雑になるので自分の目の届く範囲で行っているそうです。 魚は山内さんが漁港に直接行って、自分の目で見て納得できる品物を仕入れます。醤油・塩・みりんなどの調味料などは釧路市で自然食の宅配を営む「しっでぃぐりーんねっとわーく」から取り寄せ、国内の伝統的製法で作られたものを使用します。山三商店では添加物を使用しない魚介加工品だけを作り、商品はみどり共同購入会のような安全な食を求める共同購入組織へ販売しています。

 

干物作りの難しさ

 

 毎月1回企画している山三商店と言えば定番品は干物。昔ながらの天日干しにこだわっています。ここの干物は機械乾燥と違ってうまみ分がぜんぜん違います。山内さんのお話では「組成される成分も変わってくるのでは」ということでした。昆布などでは天日乾燥では白い粉がふきますが、機械乾燥ではそんなことはありません。天日干しは酸化しやすく、天候に合わせて行う難しさは並大抵のものではありません。9〜10月は一番おいしいものができますが、冬場は干しているだけで凍りつくような気温となる日もあります。道東地域は霧が多く日射量の少ない湿度の高い地域ですが、ここから日高山脈が見えるような天候の時には湿度も50%程度に下がり、そんな時は絶好の干物ができるそうです。 最後に山内さんからは「道東の限られた川にしか遡上しないししゃもを天日干しだけでなく、燻製にした製品を作ってみたい。特産のチーズを生かして鮭などマッチングさせて、もう一手間かけた加工品を考えたい」と抱負を語っていただきました。

<取材:2007年8月17日>

天日で干されるししゃも

 

サンマを糠漬けにしています

北海道白糠から直送される無添加の水産加工品

山内明三さん。工場裏手はすぐに海が見えます。

山三商店 山内明三さん その2

 2012年の夏休み。このときは「しっでぃぐりーんネットワーク」の川原さんと駆け足で北海道の生産者めぐりをしました。私(金谷)にとって2度目の山三商店の訪問となりました。

 

さんまの干物作り

 

8月18日の朝9時前に伺うと、山三商店の代表の山内明三さんなど3名のスタッフの皆さんは既に仕事の真っ最中でした。ここは朝早くから仕事を始め、昼過ぎには大方の仕事が終わる職場だそうです。今日の仕事はさんまの加工です。山三商店では買い付けたさんまを、冷凍庫に保管し折りを見て解凍し加工作業に入ります。さんまは人の手で1匹1匹開かれ、小骨や血合いが除かれます。血合いが残っていると魚が臭みを持ってしまうためにこの作業はとても大切との事でした。さばかれた魚は洗った後、塩水に漬けます。塩水はシーズン中は捨てずにそのまま使い続けるそうです。この方が、魚から出るアミノ酸などうまみ分が残り美味しく仕上がるそうです。
 漬ける時間は魚の大きさによって違いますが、見ているとわずか数分だけ。山三商店さんの干物は、塩分控えめに自分たちが食べるときに醤油をかけて食べるくらいを標準にした薄味にしているそうです。その後、すぐ裏手にある干し場で干されます。以前はここから海が見えたのですが、震災後堤防をかさ上げしたため堤防しか見えません。さんまなどの小さな魚は網に並べて干す「平干し」にします。屋外で干す天日干しは冬は1〜2日かけて干します。夏場でも曇っているときは翌朝とり仕込むようにしているそうです。このように手間のかかる天日干しは、白糠町でも今はほとんどやっておらず、機械干しが主流です。しかし、山三商店さんのお話では出来上がった製品の美味しさが全然違うとか。特に冬場にしばれるような厳しい寒さの時、いったん凍った魚が日に当たって解凍されて干されたものは、とても美味だそうです。

 

さんまと海の異変

 

 黒潮の水域で生まれたさんまは北上して成育し、夏には北海道以北で脂肪を蓄え、9月半ばより東日本から銚子沖の太平洋側を南下します。北海道で水揚げされたさんまはたっぷり脂肪を蓄えているのでとても美味。今は流通が発達したため本州でもさんまの刺身が食べられるようになりましたが、それまでは産地でしか食べられなかった美食の一つでした。さんまは親潮や黒潮に乗ってダイナミックに回遊する魚のため山三商店では放射能の検査を定期的に実施しています。また、震災前のさんまも買い集め加工品の多くは今でも震災前のものを使用しています。 今年はさんまを始め真ホッケなど毎年道東の港で揚がっている魚が獲れず、サバやいわしが多く揚がっています。山内さんは「震災後、海の様子がおかしくなってきている」と話をされます。

 

さんま干しの様子

 

 山内さんは18年前に水産加工の会社を辞めました。添加物の使い方を知らずに育ったのに、生産現場ではいろいろな添加物を使わされるのがいやになり、一人でやってみようと独立しました。山三商店ではしっでぃぐりーんネットワークさんから仕入れた伝統製法の調味料と、白糠・釧路などを中心とした北海道の魚を原料としています。干し魚以外の魚介類の加工も作り方も伝統的な昔ながらの製法を守っています。 「糠さんま」は3日間ぬかに漬けた発酵食品です。市販品では、製品になったものに糠をまぶしてパッケージするものも多いとか。「鮭の山漬け」は塩鮭などに比べると何倍も手間をかけた、昔ながらの保存食品です。鮭を山積みにして重さを加え、寒風にさらすことで鮭のたんぱく質を発酵の力でアミノ酸に変え旨味とします。加えるものは塩だけですが、塩鮭では出せない微妙な味わいは山漬けならでは。これは北海道の脂ののった鮭だから作れる一品です。 「イクラ」は鮭が産卵に寄って来た走りの時期のものを使用します。午前中の短時間で加工を終え卵が生きている状態で加工するのでイクラの皮が柔らかく、そのまま食べても気になりません。以前は周年共同購入会の会員の皆さんにお届けしたのですが、ムソーの迎春商品に採用され利用が増え続けているため、限られたシーズンしかお届けできなくなりました。 山三商店の製品全ては安全な食を求める消費者の皆さんに向けて作られます。「社長が一番儲からない、いまだ通勤はトラックだ。」と笑いながら話をされる山内さんですが、5年前同様、スタッフの皆さんと和気あいあいと仕事をされていたのが印象的でした。

<取材:2012.8.20>

さんまの血合いを丁寧に除きます

さんまの天日干しの様子

続 北海道白糠から直送される無添加の水産加工品

山三商店スタッフの皆さん 中央が山内さん

溝畑水産 溝畑静雄さん

32年ぶりに厚岸湾を訪れました

 

 こん夏の北海道訪問で外せない場所が、厚岸町であさりと牡蠣の養殖を行っている溝畑水産さんでした。私(金谷)は溝畑静雄さんとは直接お会いしたことはなく、震災の被害もあったと聞いていたのでずっと気がかりでした。前日に隣の浜中町・霧多布に泊まり、8月17日の朝に厚岸町に着きました。私がここを始めて訪れたのは学生の頃、今からもう32年前になります。厚岸湾と厚岸湖の境に赤い大きな橋がかかっていますが、この橋を渡り当時と変わらない風景を見ると、とたんに懐かし感傷的な気持ちになりました。自宅前の作業所で溝畑さんとお会いし、しばらくお話をお聞きしました。 溝畑さんが漁場としている厚岸湖は海水と真水が混ざり合う汽水域で、広大な湿原を擁する別寒辺牛川が流れ込みます。湿原からは豊富な栄養分が流れだし、植物プランクトンの多い天然の好漁場となっています。厚岸湖の周辺の貝塚では牡蠣殻なども発掘され、厚岸の地名もアイヌ語で牡蠣の漁場の意味からつけられたというお話もあります。明治末には牡蠣の乱獲のため絶滅の危機を迎えたこともありますが、関係者の努力によって100年かけて漁場が復活しました。溝畑さんたちは漁協青年部が中心となって「緑水会」というグループを作り、1991年から別寒辺牛川上流に1人500本の植林を始めました。この動きは徐々に広がり、今では毎年500〜600人集まる町ぐるみの大きな取り組みとなっているそうです。厚岸の牡蠣は水質が良いため大腸菌が少なく、紫外線殺菌だけで生食でき、食味のよさから現在は全国ブランドとなっています。

 

東日本大震災の影響

 

 そんな中で、3月11日の大震災が起こりました。厚岸町では幸い人の被害はなかったものの、漁業施設の建物が浸水したり、沖合いの網や浮き玉が流されました。流れの速い場所ではあさりの生息地が失われたところもありました。今年はあさりや牡蠣の生産量が半減し、共同購入会でも現在、あさりの取り組みを休止しています。厚岸漁協では570名の組合員がいますが、牡蠣の養殖をやっている生産者は105名ほど。こうした被害を前にして廃業する生産者も出ているそうです。 溝畑さん自身も震災直後は仕事の段取りさえつけられず、しばらくの間ぼう然としていたそうです。アルバイトでもしながら数年間は乗り切っていくしかないと覚悟を決めていたところ、漁船でニシン稚魚の生息を調べる国の環境調査の依頼が来ました。現在、この仕事で一息ついているとのことでした。11月から震災関連の国の補助事業が始まるそうです。大きな津波にも対応できるように湖のなかに太い杭を打ち、ロープを張った浮き玉など漁業施設が流されないようにする工事です。ただ、工事によって牡蠣やあさりの生態が変わる可能性もあり、不安は尽きないと溝畑さんは話されました。

 

厚岸のあさりと牡蠣の特徴

 

 そんな話を聞いていると10時が過ぎ、干潮となりました。厚岸湾は干満の差が1.7〜1.8mもあり、干潮時に姿を現す砂場があさりの漁場となります。私は溝畑さんの漁船に乗り込むと、10分ほど進んだ厚岸湾の中央部の漁場に着きました。長靴を履いて船から下りると、あさりの殻が散乱していました。砂場の表面を掘るとすぐにあさりが採れました。湖では生産者ごとにあさりの漁場が区分けされ、漁期が決められ資源の管理を行っています。温暖な地域ではあさりは1年を過ぎると出荷対象となりますが、ここは冬は湖が凍結する厳しい環境です。この環境の中でゆっくり育ち3年以上生育したものが出荷されます。 私が「牡蠣の様子も見せてください」と溝畑さんにお願いすると、すぐ隣の杭が打ってあるところが漁場でした。ロープにつながれた籠を引き上げると、中に牡蠣がびっしり入っていました。牡蠣の稚貝をホタテの貝殻に種付けし、3年以上かけて出荷されます。溝畑さんは牡蠣を2年間厚岸湖の中で育て、3年目に厚岸湾に移動するそうです。湖の中では早く大きくなりますが、身の締まりを良くするために流れのある湾の中で1〜2ヶ月育てます。作業所の桟橋の上には、籠に入れたままの牡蠣が干されていました。牡蠣は意外に丈夫な生き物で、こうして陸に何時間か上げても死ぬことはありません。日光に当てることで海藻や他の生き物たちを殺して、牡蠣に栄養が行くようにしているそうです。 こうして見ているだけで1個の牡蠣が出荷されるまでには溝畑さんとなど漁師さんたちの大変な手間がかかっていることがわかりました。穏やかな厚岸湖にいると「私は漁師というより農家のような感じで牡蠣たちを育てています。植林は土作りのようなものです」と溝畑さんがお話された言葉が私には理解できる気がしました。 宮城県産の真牡蠣は大きく育ち病気にも強いので全国に種牡蠣として流通してきましたが、東日本大震災で壊滅的な影響を受けました。そのため厚岸町でも牡蠣の生産が回復するのに最低でも2〜3年はかかるそうです。溝畑さんたちの夢は厚岸原産の牡蠣の出荷を復活させること。すでに10年以上厚岸湾に生息し定着した大きな牡蠣の稚貝の導入が進められ、成長したものは「かきえもん」として一部で販売されるようになりました。やがて会員の皆さんに紹介できることもあるかもしれません。今度はそんな牡蠣を食べに再訪したいと考えています。

<取材:2012.9.22>

生育して1年のあさり(左)と3年のあさり(右)

北海道・厚岸湾で牡蠣再生への取り組みを続ける溝畑さん 

厚岸湾の地図を見せながらお話しする溝畑さん

(株)高橋徳治商店 高橋英雄さん

石巻市の工場を見学しました

 

 みどり共同購入会とお付き合いさせていただいている生産者は個人や比較的規模の小さな会社が多いのですが、2009年2月20日に私(金谷)が高橋徳治商店を訪れると、その工場の大きさと近代的な施設に驚かされました。高橋徳治商店は明治38年創業した103年の歴史と伝統ある石巻市の水産加工の核となる会社でした。工場の2階に上がると1階の作業風景が見学できるようにガラス張りとなっていました。廊下には、沢山の掲示物、消費者の感想や見学した地元の生徒さんのメッセージが所狭しと張ってありました。そんなところからも食べる人の気持ちを大切にする社風が感じられました。早速、企画・開発部長の土屋さんに中を案内していただきました。製造は午前中が勝負なのですが、なんとかすり身を練りこむ工程から順をおって見学することができました。

〈職人技〉

 第二工場で原魚からすり身を作り凍結したものを凍ったままかくはん機に入れ、大きなフードカッターでスライスして混ぜ込み、数種類の魚のすり身を時間をかけ徐々に柔らかくしたところで塩や出し汁などを加えていきます。練り合わせる温度や調味料を入れるタイミングによって食感が大きく左右されるために、作業をしていた遠藤さんは冷気が漂う工場の中でも、素手のまま何度もすり身の練り状態を確認していました。経験と熟練がいる仕事で手袋をつけていると繊細な魚の肉繊維のこなれ方や魚による微妙な違いがわからないそうです。

〈安全性〉

 工場では部屋が細かく分かれていて、害虫の進入やホコリを何重もの扉でシャットアウト。副原料については徹底した異物除去を手仕事で選別してました。菌検査室では、一日で多い時には200もの菌検査をすることで安全性を確保しているそうです。

〈製造工程〉

 移動すると加熱ブ−スで笹かまぼこ・竹輪を焼いたり、蒸気で蒸したり、フライヤーで揚げ物をするラインがありました。成型されたねり物は焼いたり揚げたり香ばしく加熱された後、作り立て熱々を何とマイナス196℃の液体チッソを使って瞬時に凍結します。完全に無添加だということもあり通常の凍結では時間がかかります。緩慢凍結だと製品中の水分が大きな氷の結晶となり、解凍時に組織を壊しドリップという現象で製品の旨みが逃げていきます。「液体窒素で瞬間凍結をしているねり製品の会社は殆ど無いんじゃないかな〜」と土谷さんの話でした。工場の反対側ではできたばかりの製品をすぐにパック詰めして、冷凍庫に移動する準備が行われていきました。製造ラインとはまた違って、ここはたくさんの人がいて活気がありました。籠一杯に積まれた白はんぺんやさつま揚げ・笹かまぼこなどが出荷先別に次々と包装されていました。この包装工程は、一番菌が付きやすい工程だそうです。部屋は無菌に近く温度も低く仕切られ一切気が抜けない細い作業でてきぱきとこなす仕事振りは食を預かるものの責任とプライドを感じました。

 

無添加でも美味しい製品づくりのために

 

 見学を終え、三代目となる社長の高橋英雄氏にお話を聞きました。年間50数万トンも食べられている市販のねり物の多くが素性も分からない輸入すり身原料と多量の増量材やでんぷんを混ぜ、多量の水で増量しています。(写真参照)弾力も見栄えも味も保存性も落ちるため様々な添加物でごまかすことでより低価格を実現していますが、本物とは程遠いニセモノは食べる人に何の感動も起こしません。「ねり物は日本で歴史と伝統ある、しかも魚を加工した素晴らしい食品なのに残念です。」と話してくれました。 英雄社長もかつては大手メーカーの下請けとしてコストを下げるために添加物の使い方の勉強ばかりしていたそうです。それでも作ったものは命、ねり製品が入った箱を足で蹴飛ばして運送業者が積み込むのを見た先代社長は、運転手のむなぐら掴んで大ゲンカしたとも聞きました。魚を獲る人、練り物を作り人、皆の苦労を身体で知っていたからでしょう。 今では取り扱い商品の8割は無添加のものですが、添加物を一切使用しない製品を作り始めたのが30年前のこと。そのきっかけとなったのは大手の下請けを止めて自分たちの名前で販売したい、三人の子供さんがアトピーだったことや学校給食や添加物の問題に熱心に取り組む生協との出会いからだったそうです。 無添加に切り替えてから美味しいものができなくて仕事もなく借金が返せない売れない時期が続きました。今では自然食の流通組織や生協・通販生活など全国に販路が広がっていますが、苦しい時代を乗り越えてきたのも、経済優先で環境は壊して汚し放題、資源は使い放題、人の心も食べ物も軽んじられるこんな時代に食べ物が、どんなに大きなチカラになるものかを再認識して欲しいと考えていたからだそうです。魚介類の加工品を通じて、小さくてもいいから「ほっ〜」と食べた時の感動やありがたさ、人を思いやることの大切さを伝え、子どもたちには心の奥に重石の様にしっかり素材が持つチカラをつかんで欲しいとも言われました。 最後に、英雄社長は「無添加ねり製品とは、添加物を排除しただけではないのです。魚自体(素材)を生かすのを手伝うだけ、しかも細心の注意と気をもってです。料理を作る人は、食べる人の為を思いココロを込めて作ってください、人は信じるに足る存在です。きっとそれは皆さんに帰って来ると・・私はそう信じます。たかがねり物、されどねり物……」と話されました。

<取材:2009.2.20>*高橋徳治商店は2011年3月11日の東日本大震災で2つの恒常はもとより、高橋社長の自宅も流出。その後、2013年7月に宮城県東松島市に新工場を設立されました。

 

すり身の製造風景

練り製品作り

魚の素材を生かして30年、

無添加だけでなく美味しい練り物を目指してきました

高橋徳治商店三代目の高橋英雄さん

(有)島源商店 島田静男さん

干物作りが盛んな伊東市にある島源商店

 

 島源商店は伊豆半島の玄関口の静岡県伊東市にあります。私(金谷)が島源商店を訪れたのは11月12日の朝のことでした。ここで三代目を継いだ店主の島田静男さんに、仕入れ先の伊東魚市場に案内されました。 魚市場では主に伊豆東海岸9ヶ所の定置網で水揚げされた魚が揚がります。魚市場はセリが終わって一段落したところで、この日の魚種はいわしを中心にサバやソウダガツオと限られていましたが、地魚の豊富な様子を知ることが出来ました。 島源商店は熱海に向かう海岸道路沿いにお店があります。最盛期に比べてお店の数は2/ 3と減りましたが、今でも市内に約30軒の干物屋さんが並んでいます。このあたりは山から吹く風が干物作りに適した乾いた空気を運び、海辺の浜風はハエを寄せ付けません。年間を通して晴れ間も多く、漁港が近いこともあって昔から干物作りの盛んな地域なのです。

 

30年以上前に無添加の干物作りを始めました

 

 61歳の静男さんは1975年に結婚して島田家の後を継ぎました。明治時代に創業した島源商店は地元でも大きな干物屋さんで、当時20人くらいの人が働いていました。観光客も多く干物は作れば飛ぶように売れた時代でした。その数年後に自然食の大手宅配組織「大地を守る会」と出会い、交流が始まります。 干物作りは今でも酸化防止剤や化学調味料などが普通に使われますが、静男さんもこうした添加物を使用することに当時は疑問を感じることがありませんでした。お店を訪れる消費者の人たちに添加物の危険性を指摘されると、静男さんにも思い当たることがありました。干物作りにはさばいた魚を一定の時間塩水に漬ける工程が欠かせませんが、この作業を行う職人さんの腕のあたりがいつもただれていたからです。塩水と一緒に入れられていた薬剤の影響でした。そんな干物を子供や孫たちに食べさせることはできない、罪悪感を感じた静男さんは工場にあった薬剤を捨て、以後添加物を一切使用しない干物作りを行ってきました。 添加物を使わないと光沢がなくなり、干物はすぐに黄色くなっていきます。当時、熱海市などのドライブインや小売店に置いた干物は売れなくなり、職人さんたちが次々に仕事を辞め会社の規模を縮小する厳しい時代が続きました。静男さんは魚の種類ごとに細かく塩分や乾燥状態を工夫し魚本来の味を生かした干物作りを研究しました。包装は真空パックしてすぐに冷凍してそのまま届ける方式に変えました。販路も見栄えの良さが求められる店頭販売から、安全な食を求める人々と結びついた宅配組織や生協などへ切り替えていきました。

 

「天日干し」による干物作り

 

 島源商店の干物は無添加はもちろん、地魚を中心に国内沿岸で水揚げされた魚を使用していること、自然の太陽と風にたっぷりあたった「天日干し」であることが大きな特色です。今日の干物作りではいつでも乾燥でき失敗の少ない機械乾燥がほとんどです。天日干しと呼ばれていてもその多くは屋内に干場を作ったり、仕上げの何時間かは機械乾燥に頼っています。 島源商店にも乾燥機はありますがここ数年使用していません。干し場は3階建ての自宅兼用の工場の屋上にあります。一年を通して天候を見ながら天日干しを行います。真夏は気温が下がる夜明け前から作業をはじめ、周囲に水を撒き気温を下げ魚に直射日光を当てないよう工夫します。天気の悪い日もありますが、家族4人の他スタッフ5人で仕事をやっているため、そんな日は無理をせず屋内の仕事をこなします。 私は天日干しにそこまでこだわる理由を静男さんに尋ねました。すると「天日干しの干物は甘みがあります。魚の熟成を促進し魚の表面に膜を張ってうまみを閉じ込めるため機械乾燥したものと全然味わいが違うのです。布団は天日で干したほうが気持ちがいいのと同じですよね。」という答えが返ってきました。

 

島源商店では世代交代が始まっています

 

 ホンモノの干物作りに半生を捧げてきた島田静男さん。「干物づくり朝飯前」(創森社)という本を著作し、「干物塾」という教室では首都圏の消費者に干物作りの楽しみ方も伝えています。そんな静男さんですが、ご自身が培ってこられた職人としての技術や勘をどのように後世に伝えるか苦心されているように感じました。島田家では女の子ばかり4人続きました。男手として内田清隆さんが1年半前からお店を手伝っています。 その内田さんに加工場を案内していただき、少しの間お話する機会がありました。内田さんは、船橋漁協とタイアップして東京湾の魚を生協のお店に置く取り組みを始めました。加工場では干物の塩分濃度のデータを毎日測定し、親方、静男さんの職人の技を自分なりに早く身につける努力をしていました。若い人が原点を大切にしながら新しい感性で、新しいことにチャレンジしている。そんな姿を見たとき、私は今後も消費者の人たちに支持されていく島源商店の将来の姿を想像し、心豊かな気持ちで伊東市を後にしました。

<取材:2010.11.11>

島源商店には大きな看板が

魚を天日乾燥する島田さん

島源商店はホンモノの干物の味を

次世代に引き継ぎます

島源商店を担う内田さん

(株)パプアニューギニア海産

パプアニューギニア海産の歴史

 

 宮城県石巻港は2008年には日本で5番目の水揚げ高を誇った漁港です。港周辺は水産加工のために数多くの工場があります。船長・機関長など海の男を輩出した地域で第二の職場作りもあってここにパプアニューギニア海産の工場が作られたのは2002年のことでした。 社長の武藤優氏は1949年生まれでエビと一生関わる歩みを続けます。長崎大学水産学部を卒業後、東京都築地市場の荷受会社の冷凍エビ課に就職しました。以後、生産者の立場に立った生きかたを志向し、2人の子どもがいましたが1979年に海外青年協力隊に参加。1982年には国際協力事業団事務所長としてパプアニューギニアに赴任。その後日本における販売窓口として、株式会社イサテアジャパンを創立しました。この頃から日本で養殖エビの輸入が増え続け、天然エビの流通システムが崩壊する可能性が生まれます。そのため自主流通システムを開拓する必要に迫られ1998年、会社をパプアニューギニア海産に組織変更し、代表取締役となりました。 現在、パプアニューギニア海産では天然エビの産直を事業の柱にエビ以外の海産物や漁具の販売や技術指導員の現地派遣などを行っています。現地の対応に忙しい武藤優氏と共に、息子の北斗(ほくと)さんが営業部長として工場内の物流手配や販路の拡大などの仕事を担っています。北斗さんは卸売り市場で魚介類の扱い方を学び、お父さんの会社に入って2008年で9年目となりました。

 

現地のつながりを大切にした生産と流通のしくみ

 

 1985年に設立された政府水産公社は現地資本による会社です。通常、エビの世界では日本サイドからお金や人など全て用意し、製品だけを日本に輸出する現地合弁会社による開発輸入の形態をとります。資源がなくなると撤退する会社が多いのですが、パプアニューギニア海産では相互の自立した関係作りのため資本参加は行っていません。技術参加や経営指導という形で現地とかかわり、商品の売買については現地の意思を全て尊重しています。また、捕獲したエビは全量引取り、価格は生産者の原価を理解し、全力でそれを支えるということを基本にしています。こうした方法では事業に理解があり継続して購入してもらえる流通組織や消費者の人たちの存在が欠かせません。現在販路は卸売り市場関係が約30%、レストランなど個人が約10%、残りは自然食などの宅配の関係です。工場を訪問した際、武藤北斗さんは「今後は宅配関係の流通の割合を増やして行きたい」と話されていました。 パプアニューギニアのエビ漁では全長25m、150トンの漁船が2つの網を使って漁獲します。大型底引きトロール船は海底に網を沈め根こそぎ海底を削り取るやり方で漁獲していますが、現地では網は海底につけず浮かして漁獲します。漁獲高は1日平均250kg、1日6回操業して1回40kg程度です。また、国レベルで漁獲制限を設け、メイン漁場では3ヶ月間の禁漁期、ライセンスを持つ船は15隻に制限し、陸から3マイル以内の禁漁区域を設けています。船には全船GPSが搭載され悪質違反船はライセンス取り消しなど厳しい罰則が設けられています。パプアニューギニア海産では2008年には現地合弁会社が2隻も船をチャーターし、自らが生産者の仲間入りをして他社に対する指揮もより現実的なものになり、現地との結びつきを更に強めています。

 

薬剤を使用しない天然えび

 

 日本人のエビ好きは有名で輸入水産物の中では金額でトップ。世界一のエビ輸入国です。小型のエビは国内沿岸でも捕獲され、特に北陸地方などでは食卓に上る機会もありますが、エビフライなどに使う中〜大型のエビはまず輸入品、そのほとんどが養殖によって賄われているのが現状です。エビはベトナムやインドネシアからの輸入が多いのですが、最近ではサウジアラビアなどの砂漠地帯にホワイトエビを大規模な施設を作って養殖する例も増えています。東南アジアなどで養殖されるエビは池の中にたくさん飼うことができるブラックタイガー種が多く、過密状態で養殖することから病気予防のため抗生物質をエサに混入するのが一般的と言われています。そして、消費者の手に渡るまで輸入されたエビは凍結や解凍が繰り返され、解凍後のエビの変色防止のため黒変防止剤を使用するなど薬漬けの状態で流通されます。最近では、エビのプリプリ感を出すために保水剤・保湿剤でエビ体内の水分を保ったり、落ちた食味を補うためにグルタミン酸やイノシン酸系の食品添加物を添加するようになってきました。 武藤優氏はこうしたエビの流通に疑問を感じ、薬剤を一切使用しないエビの流通を進めてきました。パプアニューギニアの天然エビは漁獲量はそんなに多くなく、捕獲後に手早く処理できるため薬剤処理する必要がありません。現地では主にホワイトバナナ、ブラックタイガー、エンデバーの3種類のエビが漁獲されます。水揚げされたエビは船内で2kgの氷の塊のような状態でブロック凍結されます。業務用で直接届ける他は石巻市の工場でいったんブロックを解凍します。その後工場内でエビの大きさを選別し、小分けしすぐに再凍結したものを製品として販売します。このような流通のため天然エビ本来の食味が失われておらず、販売先や消費者からも安全性はもとより、味の点でも高い評価を受けています。みどり共同購入会でもパプアニューギニア海産の天然エビの人気は高く、月2回の企画を行っています。

<取材:2009.2.20>注:パプアニューギニア海産は2011年3月11日の東日本大震災で工場が流出しました。その後2011年8月に大阪市茨木市で工場を再開しました。

パプアニューギニア海域でのエビの捕獲作業

天然エビの加工の様子

パプアニューギニアの人々と草の根の産直で始まった

天然エビの流通

武藤優さんの息子の工場長・北斗さん

土四万十川は日本最後の清流

 

 高知県・四万十川は日本最後の清流と呼ばれ、私(金谷)も5年前の夏休みに子供とカヌーで川下りを楽しんだことがあります。ゆったりと流れる四万十川は川の生き物が豊富で、上流まで人家があっても水が澄んでいたことには驚かされました。今でもアユやうなぎ漁で生計を立てている人がたくさんいて、流域の人は日常的に川と親しんでいる様子が伺えました。そんな四万十川河口でうなぎの養殖を行っているのが四万十市の加持養鰻場です。

 

うなぎの養殖はしらすうなぎ漁から始まるのです

 

 前日に富山を出て中村駅前で泊まり、翌12月17日に車で四万十川下流に向かって車を走らせ、支流の深木川を10分ほど上がると養鰻場に着きました。この日は代表の加持徹さんと義兄の中野芳夫さんに対応していただきました。 早速、中野さんに見せていただいたのは四万十川で採れたばかりの体長5~6㎝くらいのうなぎの稚魚のしらすでした。うなぎの養殖は孵化技術が確立されてないために、捕獲したしらすうなぎを育てて成魚にします。しらすうなぎが遡上する川はダムや川の汚染によって減っていて、日本で養殖されたうなぎの半分以上のしらすうなぎは韓国や台湾などから輸入されています。 四万十川では毎年12月1日~3月5日迄がしらすうなぎ漁の漁期です。汽水域の漁場ではたくさんの船が並び、夜間に灯りをともして20㎝ほどの玉網で一匹一匹稚魚を掬う様子は昔から続く四万十川の風物詩となっています。採捕は許可制で加持養鰻場では地元の漁協より集荷の許可を得て漁師から直接購入しています。全国的に少なくなってきているうなぎの稚魚ですが、四万十川でも最近は1匹も採れないこともあるそうです。そんな貴重なわずか0.2gほどのしらすうなぎは一週間で約2倍になりますが、200~250g位の大きさに育て出荷できるまで7割くらいしか残らないそうです。私はそんなお話を聞き、うなぎが高級魚と呼ばれる訳を理解することが出来ました。

 

加持養鰻場の飼育方法の特色

 加持養鰻場では、コンクリートの養殖池の底に活性炭を埋め込み、マイナスイオンが豊富な“場”をつくる磁場優化工事を水槽に施しています。養魚場の水は深木川の伏流水を汲み上げ、活力豊かな優化水(イオン水)として飼育水に使います。排水する際も沈殿ろ過して放流しています。養魚池はビニールハウスを張り冬場の加温には薪も焚ける特製のボイラーを使い、廃材をおもな燃料として重油は極力控えて加温し、室温を一定に保っています。エサは近くの市場からアジやサバなどを買い付け冷凍して保管。配合飼料と共に、ミンチにしてうなぎに与えます。一般の養殖ではエサに短期間で大きくするため魚油も使用しますが、臭いがつき身に締まりがなくなるので加持養鰻場では使用していません。養魚池では過密にならないようにうなぎが十分運動できるスペースを与え、1年以上かけてゆっくりと育てます。 一般のうなぎの養殖には抗菌剤や抗生物質など薬剤の投与が欠かせません。中国産のうなぎでは国内で使用禁止となった抗菌剤などが検出されたこともありました。加持養鰻場では飼育中に薬剤の使用は無使用。そのため養魚池の中には浮草が浮いていました。分析試験場での薬剤の残留検査もクリアしています。加持徹さんはお父さんの後を継いだ二代目です。お姉さんのご主人で養鰻業をしていた中野芳夫さんと共に試行錯誤を繰り返し、イオン水を用いた「優化技法」の養殖技術を確立してきました。 現在日本で消費されているうなぎの約2/3は中国や台湾から輸入されています。うなぎの消費量も10年前の半分くらいに減ってきた結果、高知県でも350軒くらいいた生産者は、現在は20軒くらいしか残っていないそうです。全国でも四万十川で採れるしらすうなぎだけで養殖しているのは加持養鰻場だけです。加持養鰻場は共同購入グループやお店などに直接販売することで40年余り続けていくことが出来ました。

 

生産から加工までをやっています

 加持養鰻場ではうなぎの養殖だけでなく、加工して製品のパック詰めまで行っています。水揚げされたうなぎは約1週間、完全流水の中で別の水槽に置かれ、その後サイズ別に分けられた後さばかれて調理されます。 お話をしていると、隣接する加工場が稼動を始めました。さばかれたうなぎはイオン水によって蒸された後、遠赤外線のバーナーで焼かれ約11分で白焼きになります。蒲焼は約7分かけて3番ダレまで漬けられ最後に炭火でこんがり焼かれ、最後にもう一度タレが漬けられます。タレも国産大豆を使った醤油などを使った加持養鰻場のオリジナル品。こうして出来上がったうなぎが不味いわけがありません。焼きあがったばかりのうなぎをご馳走になると、身が柔らかいけれど、臭みがある昨今のうなぎと別物。朝から1匹ぺろりと食べることができる美味しさでした。 「今晩泊まっていけば四万十川のしらすうなぎ漁に連れて行ってあげる」と加持さんからのお誘いがありました。この後の予定がなければ私は迷わず、もう1泊したと思います。四万十川は川好きな人間にとってはなんとも魅力的な場所。私は後ろ髪を引かれる思いで、次の予定地の無茶々園に向けて出発しました。

 

<取材:2010.12.17>

うなぎを焼いてタレにつけています

清流四万十川の汽水域

清流・四万十川支流でうなぎ養殖を行う加持養鰻場

加持養鰻場を経営する加持徹さん()と中野さんご夫妻

加持養鰻場
カワノすり身店 河野宣弘・良子さん

新鮮な魚の水揚げがある山川港

 

 琉球から薩摩藩に伝わったさつま揚げ。地元・鹿児島県には約400社の製造メーカーがありますが、指宿市の「カワノすり身店」の河野宣弘・良子さんは伝統の味と製法を守り続けてきました。 「カワノすり身店」がある旧山川町は九州屈指の温泉地指宿市内にあり、町内にも砂蒸し風呂で有名な山川温泉があります。観光とともに盛んなのが漁業です。九州南端にある山川港は南蛮貿易の拠点として栄えてきた歴史があり、かつお節の本場として国内生産量の3分の1が製造されています。鹿児島県の伝統産業でもあるさつま揚げは、魚肉すり身をなたね油で揚げることを基本にして、素材の味付けや魚は各社が独自の製法を競っています。 「カワノすり身店」のすり身魚の基本はシイラとスケソウダラです。シイラはかつお漁の副産物として水揚げされる魚で体長は2mにも成長し、淡白な白身の美味しい魚です。地元では昔からすり身には欠かせない素材として利用され、甘くて柔らかい原料魚となります。スケソウダラは最近ではアラスカなどの輸入品が使われることが多くなりましたが、「カワノすり身店」では北海道産に限定して仕入れています。その他品目によって地元で獲れるアジやトカチン(磯まぐろ)など生魚を使用します。鮮度の良い生魚を使用したほうが味は良いのですが、鹿児島県内でも生の魚をすり身原料にするところは減っています。手間がかかることや骨などのざんさの処理が大変なことがその理由ですが、山川町ではかつお節工場があるので昔ながらの作り方が出来るのです。

 

さつま揚げ作りの工程

 

 私(金谷)がお店を訪問したのは2008年8月9日のことでした。店内では朝からさつま揚げ作りの真っ最中、店主の河野宣弘さんが豪快にシイラを三枚に卸していました。このシイラは地元の漁港で水揚げされたものを魚の臭みを抜くために一晩冷凍しておいたものです。その後、スケソウダラと合わせてチョッパーで細かくミンチにします。その魚肉を氷を入れ温度調整しながらさらに細かく石臼で挽きます。最近ではステンレス製の機械を使うところが多いのですが、「カワノすり身店」では開業以来、温度変化が少ない石臼を使用しています。ミンチにした魚肉に地元の鰹節で作ったかつおだしを始め、平飼い卵・赤穂の天塩・鹿児島産洗双糖・北海道産馬鈴薯でん粉・本みりん・純米酒など調味料を入れ味を整え、約1時間かけて練り上げます。 さつま揚げの原型はこれで完成です。工場のスタッフは11名。この日、宣弘さんの他は奥さん良子さんと娘さんの真紀さんなど女性ばかり4人が忙しく働いていました。練ったすり身をすぐに揚げるとあがりが悪くなるために1時間ほど寝かせます。原料を成型しプーレンなさつま揚げ以外は、かごしま有機生産組合などから仕入れたごぼうや人参・さつま芋などの野菜を入れていろいろな種類のものを作り、それぞれ別個に揚げていきます。その後、製品を冷ました後にパック詰めします。12畳ほどの工場ではその多くが手作業で作られる、長年培った技術やノウハウが生かされていく世界です。

 

安全なさつま揚げの取り組み

 

 「カワノすり身店」が開業したのは28年前のこと。当時、子育て真っ最中の河野良子さんが家庭にいてできる仕事としてすり身作りを始め、やがて評判を呼ぶようになり漁師をしていた宣弘さんも加わって家族ぐるみでさつま揚げ作りを始めました。地元の物産展で先代の鹿北製油の奥さんと出会い、すすめられるままに鹿北の国産なたね油を使用しました。そのことがきっかけで「オーガニックスーパー」を経営する夢市場さんとの取り引きがはじまり、食用油以外の原料もできるだけ国内で生産できる安全で素性の確かなものに切り替えていきました。現在、なたね油は伊集院物産の鹿児島産のなたねを原料にした油を使っています。なたね油は他の油に比べると臭いが強く出ますが、臭いを抑えべとつかず色のつきにくい特注のものです。 一般の練り製品には材料を結着したり保水や弾力・しなやかさを作るためにリン酸塩や乳化剤、最近では食品接着酵素などが使われます。それらは増量剤としての役目も果たし、たくさんの水を含んでもプリプリした食感を生みますが、本来のねり製品の食感ではありません。「先日、大手メーカーからさつま揚げを輸出してみないかという誘いがありましたが、お受けすると大量生産することになり、今の作り方を守れないので断わりました」と良子さんは明るく笑って話をされました。「カワノすり身店」は無理に大きくなることを望まず、ファンを増やしながら昔からの作り方を大切に守り続けていたお店なのでした。

<取材:2008.8.9>

河野宣弘さんが仕入れてきたシイラを加工します

国産のなたね油で揚げています

さつま揚げの本場で伝統の味と製法を守り続ける

カワノすり身店

カワノすり身店・河野さんご夫妻

(株)金沢錦 佃真紀子さん

佃食品から独立した金沢錦

 

 昔から保存食として、海産物を主に利用して砂糖や醤油を使って煮込んだ惣菜の一つが佃煮です。「ごり佃煮」や「くるみ佃煮」は加賀料理の中でも欠かせない佃煮で、金沢市の特産品にもなっています。昭和21年に創業し、この地で無添加の佃煮を作り続けてきたメーカーが(株)佃食品です。磯部晶策氏の“良い食品づくり”の理念に共鳴して伝統の技を守り、本物のたべものを追求してきた食品メーカーの一つです。 佃食品が販路をデパート以外に拡大するために、関連会社として昭和54年に創業されたのが(株)金沢錦でした。平成3年には会社として独立し、現在の佃真紀子氏が代表に就任しました。創業当初は海鮮マリネや貝類の加工・昆布巻を中心に作ってきました。真紀子氏のご主人は佃煮の釜炊きでも絶妙な技術があり、金沢錦は佃食品に続いて北陸地区では原材料を自社工場で炊く数少ない会社でした。 独立して数年間は厳しい時期が続きましたが、現在は自然食品店や生協などにも販路が広がり、事業的にもメドが立ってきました。製品は自社製造のものと、佃食品より仕入れたものを合わせて佃煮で約30種類、惣菜で約50種類の商品を取り扱っています。

 

工場を見学しました

 みどり共同購入会と10年以上前からお付き合いがあるのが金沢錦さんです。近いところはいつでも訪れることができるという感覚があったので、私(金谷)が実際に工場を訪れたのは2010年の3月18日のことでした。工場は金沢東インターを降りてすぐのところにありました。工場内では釜が12個設置されていて、中からはもうもうと湯気が立っていました。

 佃煮の製造は仕入れた原料の異物を取り除き、調味液に入れて加熱します。素材によっては骨までふっくら炊き上げるために原料の魚を予め炭火で焼きます。こうして原料を釜炊きして加工した後は、計量して小分けしパック詰めします。その後真空・加熱殺菌処理を行い出荷に備え保管します。  

 この日は、「アジのマリネ」用の小アジを油で揚げているところでした。原料の小アジは金沢港で水揚げされたものを1年分ストックし冷凍庫で保管します。保管したものはそのつど解凍してフライヤーで揚げて漬け込みます。隣では最近開発した「かきの炊き込みご飯」の原料のかきを釜炊きしていました。もうすぐシーズンが終るかきは丸々太って身がぷっくりして見るからに美味しそうでした。  

 別の部屋では炊き出された「たらこ昆布煮」や「ごりの佃煮」のかたまりを、スタッフの方たちが手際よく計量して袋詰めしているところでした。しばらくすると、「かきの炊き込みご飯」のパック詰め作業も始まりました。1パックごとに入れるかきの個数を揃え、かきを炊き込んだ煮汁を加えた調味液を入れます。これが美味しさのポイントのようです。「たらこの昆布煮」の計量が終ったスタッフの皆さんが、移動して来られてだんだん賑やかになってきました。金沢錦の工場では男性4名が佃煮の釜炊き、パック詰めや出荷は女性ばかり15名、事務スタッフなど合わせて23名のスタッフで仕事をしています。

 

佃社長の抱負

 

 てきぱきとしたスタッフの皆さんの仕事を見学させていただいた後、佃社長にお話を聞きました。私が、“割烹惣菜”というネーミングを付けている理由を尋ねると「それは単なる惣菜ではなく、お料理屋さんで揃えられる食材、美味しかったら心に残る、喜ばれる食材をめざしているためなのです」との答えが返ってきました。作られた商品には品質改良剤のリン酸塩や甘味料の甘草、保存料のソルビン酸や増粘安定剤・酸味料や化学調味料など食品添加物を使用していないのでいやな後味がありません。製品によっては旅館などにも卸しているそうです。金沢錦の惣菜は厳選した素材を使用し、手間と時間をかけ調理します。醤油は大豆をそのまま使った丸大豆醤油、国産さつまいもでん粉・麦芽使用した水飴、国産もち米・米を使用した本味醂、国産米を使用した米酢など調味料は伝統製法で作られたものを使用しています。アジ、イカ、カタクチイワシなどの魚は金沢港や能登半島で水揚げされた魚介を使用します。国内原料は価格が高いため、ごりなどは輸入の魚介を使うものもありますが、みどり共同購入会では国産の魚介類を基本にした商品の取り扱いを行っています。  佃社長のお話では保存食として利用されてきた昔の佃煮と違い、今の味付けは薄味を心がけ、生っぽい感覚を生かすようにしているとのことでした。消費者の嗜好が変わり、上品な口当たりが好まれ濃い味付けだと素材の美味しさを生かせないためです。一つ一つの素材を生かすために、例えば昆布でも厚さを微妙に変えているそうです。ホキの卵をたっぷり入れた「いかの宝詰め」は昆布の厚さを2mmに、「たらこ昆布煮」は3mmにしているので、歯ごたえや昆布から出る旨み分が違います。  食生活の洋風化が進み、お米離れが進む中で佃煮全体の消費は減りつつあります。そんな中で、佃社長に今後の商品開発の抱負をお伺いすると「さざえやかきなど北陸の素材を使った惣菜を作っていくことです」という答えが返ってきました。さざえは輪島市、かきは中島町の特産品です。地元の素材を生かした北陸の地にしかない佃煮——金沢錦の新しい挑戦に期待したいと思います。

<取材:2010.3.18> 

 

 

「かきの炊き込みご飯」の計量

金沢名物ごりの佃煮の袋詰め

北陸の食材を生かした佃煮惣菜

金沢錦の皆さん

佃真紀子(左)と事務スタッフの皆さん

(有)クックたかくら 高倉正雄さん

「クックたかくら」の歩み

 

 東京都東久留米市にある「クックたかくら」は社長の高倉正雄さんが営業を、奥さんの久江さんが料理を担当し、息子さんの尚さん他、スタッフ14名のアットホームな会社です。高倉さんの娘さんがアトピーだったこともあり、久江さんが安全な食品に関心持つようになりました。その後、正雄さんが脱サラして二人で自然食のお店を始めました。ここで、仕入れ先として首都圏を中心にした大手宅配組織と出会うことになります。当初お店では健康食品のようなものばかり置いていましたが、売れずに野菜などの生鮮品を扱うようになってお客さんが増えてきました。しかし、生ものは売れないとロスが出ます。そこで料理が上手だった久江さんが惣菜作りを行い都内の自然食品店に卸すようになりました。

 大手宅配組織と「クックたかくら」の惣菜の取り扱いが始まったのは約25年前のことでした。当時は消費者に安全な素材を提供することが“仕事の本業”とされていた時代でしたが、素性の確かな惣菜は珍しく、食べても美味しいことから飛躍的に取り扱いが増え、1日何百パックも製造する日々が続きました。

  約10年前にその提携先との取引を止めたとたんに経営が厳しくなりましたが、続けて欲しいという声に支えられて今日までやってきました。新しく提携した共同購入組織を加え、最近になってようやく以前と同じくらいの売上げまで回復したそうです。

 

惣菜の美味しさの秘密

 

 「クックたかくら」の惣菜は冷凍品と思えない食味が一番の特徴です。商品に付けられたシールをご覧いただくとわかるように、シールには製造年月日と賞味期限の両方が表示されています。商品のほとんどは発注されてから製造し、冷凍品であっても作り置きせずに毎日12〜13品目のものを作ります。そのため作られたものは生ものにとても近く、冷凍臭さがありません。正雄さんのお話では「見学に来られた方は家庭の台所を大きくした位の調理場を見て、みな驚かれて帰っていかれる」そうです。お届けしている惣菜は機械をほとんど使わず小さな工房だからできる製品なのです。

  できあがった惣菜は真空パックして電子レンジ対応の容器に入れていますが、美味しく食べていただくには自然解凍が一番良いそうです。少し硬さが残るくらいで調理を止めているので自然解凍だと時間をかけ解凍される間に味付けがなじんできますが、電子レンジだと急激に熱を加え美味しさが逃げてしまいます。温めるときは自然解凍したものを鍋に移して、熱を加える程度にします。「クックたかくら」では味付けを全体にうす味にしています。それは国内産、有機農産物、伝統製法の調味料などを厳選した素材そのものの味を生かしたいと考えているからです。また正雄さんのお話では「うす味だと家庭で味付けをプラスすることができますが、濃い味付けだとそれはできない」とも言われました。

 

「クックたかくら」の新しい挑戦

 

 手作りで厳選した材料を使えばどうしても他のメーカーの商品と比べると価格は高くなります。しかし、いくら良心的に作っても価格のことも考えなければ売れない時代となってきました。そのため最近では購入単価を抑え、“ちっちゃなシリーズ”を販売するようにしました。これはお弁当のおかずにも利用しやすいコロッケやハンバーグ、シュウマイなどのミニサイズの惣菜です。それに続く惣菜として2009年より個食タイプの和惣菜を開発しました。「クックたかくら」では今まで家庭料理の範疇に入るこうした製品作りは考えていませんでした。しかし、ある流通業者のすすめもあってコンビニの店内をのぞいてみたところ、高齢者の来店が多く昔ながらのなじみがある和惣菜がとても良く売れていたそうです。意外に若い人にも利用されていました。

  和惣菜は家庭で作るのにも時間がかかり、たくさん作らないと美味しくありません。核家族となり、“個食”が珍しくなくなった中で家庭料理として毎日作り続けるのは難しくなっているのが現状です。私たち共同購入グループが扱うものは油脂や肉などを使った洋食系の惣菜が大半を占めています。食べ盛りの子どもたちにはこれでもいいのでしょうが、食が細くなり動物性の素材を控えるようになる世代からは“おふくろの味”と呼ばれる料理が好まれるようになっています。個食パックは1パックの量の点でやや物足りなさを感じることもあるかと思いますが、どれも折り紙つきの美味しい惣菜です。「クックたかくら」では今後、一人住まいの高齢者に対する惣菜の提案も考えているそうです。

 

<取材:2009年5月>

  

工房では手作りでの調理が基本です.

高倉久江さんの料理の味には定評があります.

時代にあった新しい惣菜作りを提案する手作りの工房

スタッフの皆さん

 正月明けの1月4日に私(金谷)が訪れた先が(株)千葉産直サービスでした。場所は千葉市の住宅街の一角にあり、事務所と製造工場が併設しています。この日は工場は稼動しておらずスタッフの方はお休みでしたが、専務取締役の富田正和さんにお話をお伺いすることができました。

 

千葉産直サービスの歩み

 

 会社の実務を担っている富田さんは現在36歳。私が生産者を訪問した中でも、かなり若手の経営者の方でした。千葉産直サービスはお父さんの捷治さんが脱サラで始めた会社で、創業は1976年になります。当初は肉の産直などを行っていましたが、会社の転換を迎えたのが「新潟消費者センター」との出会いでした。千葉県房総半島は漁業も盛んで消費者に安全な食材を提供してきた同会から地元の水産加工品開発の要望があり無添加煮干の取り扱いを始めたのでした。その後、ロングセラーになる「とろいわし缶」を開発。自社のこうした商品を直接消費者に販売も始め、事業が徐々に軌道に乗ってきました。「添加物のない食品を求める人々の熱気ある時代に支えられた」と富田さんは話されました。

 1990年から自然食品店や生協との提携も始まり、95年からは当時珍しかった非遺伝子組み換え飼料を使った食肉の取り扱いを始めます。千葉産直サービスの豚肉は房総半島の比留川さんという個人の生産者から一頭単位で購入しています。部位によって余ってしまうものが出るため、惣菜の生産を手がけるようになりました。惣菜の品目は徐々に増やして、現在では鶏肉、牛肉、鴨肉などの食肉の生産者と提携しています。惣菜の生産も委託から自社生産への切り替えを進め、現在約8割の惣菜を自社工場で作るようになりました。

 

日本一の青魚缶に向けた思い

 

 千葉産直サービスの看板商品は魚缶。現在でも売上げの半分を占めています。魚缶というと濃い味付けの保存食としてのイメージが強いのではないでしょうか。一昔前はキャンプなどのアウトドアの定番商品でした。最近では、外国産で現地加工したものが格安で販売されるようになってきました。生の魚よりは品質の悪いものが使われることが多い中で、千葉産直サービスの魚缶は食卓のメイン料理としてご利用いただける商品です。 とろいわし缶の生産が始まったのは1988年。当時調味料にこだわった魚缶がなかった時代ですが、無添加であることはもちろん刺身にできるような脂の乗った最高品質のものだけを厳選し、製造しました。2006年よりさんまやさばを使った魚缶の販売を始めます。どれも水揚げ港、漁期などを考えシーズンで一番良い時期の原魚を使用し、伝統製法の調味料を使い控えめな味付けにとどめ、素材そのものの旨味を生かした製品です。 千葉産直サービスでは、2ヶ月前から缶詰の容器を用意します。そして産地と密な連絡をとりシーズンで一番良い原魚を仕入れます。水揚げされた魚はすぐに工場に運ばれ、わずか数日間で1年分の製品を作ってしまいます。加工工場では製造ラインを優先して空けてもらえるのは長い間の関係があるからできることです。「日本一の青魚缶作っていきます」と富田さんは自信を持って語られましたが、そのお話を聞いて私も納得しました。 青魚は不飽和脂肪酸DHAとEPAが豊富ですが、時間の経過と共に失われてしまいます。缶詰は鮮魚としての栄養をそのまま長く閉じ込めておくことができます。千葉産直サービスの魚缶は骨ごと柔らかく調理しているので、カルシウムなども摂ることができます。最近では防災用品としての観点からも見直されているそうです。

 

放射能の測定とこれから

 

 「両親が苦労しているところを見て、流通業の世界の厳しさを知っているので会社は継ぎたくなかった」と富田さん。社会人になった当初は別の会社に勤めていましたが、このままでは会社が維持していけないと考え26歳の時に入社しました。今では若い感性を生かして新たな商品開発や商品の広報活動に尽力されています。仕事を通して返ってくる消費者の皆さんの声が励みとなっているそうです。 2011年3月に起こった東日本大震災と原発事故によって会社は新たな試練を迎えました。富田さんは主力品目のとろいわし缶を作らなければ会社が継続していけないと考えましたが、東日本海域で獲れる魚への放射能汚染の不安が広がっていました。そのため2011年5月には販売商品をロットごとに放射能汚染の測定を行い、消費者の皆さんにデータを公開することを決意しました。測定は提携生産者の食肉も含めて実施し、データはホームページに掲載しています。1~10(現在は1~5)ベクレル/㎏検出限界値で測定していますが、現在まで限界値未満の結果となっています。 放射能汚染の問題だけでなく漁獲量の減少など日本の沿岸漁業を巡る状況は年々厳しくなっています。富田さんは「1988年をピークに真いわしの水揚げは激減しています。国産の美味しい魚がこのような形で20年、30年先にも食べ続けていくことができるかどうかはわかりませんが、次の世代に本物の美味しい食品を残していきたい」と最後に抱負を語っていただきました。

 

<取材:2013.1.5>

国産きのこ飯の素の作業

とろいわし缶を製造しています

食卓のメイン料理となる魚缶にかける思い 

正月休みにお会いした富田正和さん

(株)千葉産直サービス  富田正和さん
おやつ堂 のあ 林理香さん

「おやつ堂 のあ」は宇奈月町にある小さなお店

 

 おやつ堂のあの林さんとは「アースデイにいかわ」で出会いました。美味しく個性的な焼き菓子のお店を出店されていることから声をかけ、みどり共同購入会と提携するようになりました。店主の林理香さんは黒部市宇奈月町内山在住。内山地区は宇奈月温泉下流にある黒部川沿いの集落の一つです。市街地ではなくこんな所でどのようにお菓子を作っているのか、とても興味がありました。訪れたのは提携が始まってすぐの2008年7月4日のことでした。富山地方鉄道の内山駅に行くとこの周辺は何十年も昔から変わらずレトロのままで、タイムスリップしたような感覚がしました。駅から歩いても5分くらいの奥まった一軒家が「おやつ堂 のあ」の林さんのお店。自宅の一部を改装して工房と販売スペースが作られていました。

  この日林さんは、みどり共同購入会の注文分のビスコッティ作りをしていました。まず卵と砂糖を混ぜたものにナッツやドライフルーツ、小麦粉を加え生地をまとめます。その生地をなまこ型に成形後、何回かオーブンで焼くことによって水分を飛ばし固いお菓子となります。ビスコッティはパンの代わりの携帯保存食として利用されてきたお菓子です。柔らかいお菓子が好まれる時代でどれだけ会員の皆さんに受けいけられるか林さんは心配していましたが、2回目もかなりの注文がありました。「アースデイとやま」や護国神社ののみの市の出店でも「美味しかった」と何人かの会員の方から直接声がかかったそうです。

 

「おやつ堂 のあ」のお菓子づくりの特色

 

 林さんは菓子学校を卒業後、会社勤めをしながら地元の喫茶店にお菓子を卸していましたが、3年前にお菓子作りを専業にしました。現在はインターネットでの直売やイベントでの出店販売を行っています。出店は労力もかかりますが、お客さんと直接出会って意見を聞くことができるので一番おもしろい出合いだそうです。

  「おやつ堂 のあ」のお菓子作りにはいくつかの特色があります。一つは販売するお菓子の約2/3は焼き菓子系ということです。スポンジにクリームを挟んだクリーム系のお菓子も作りますが、焼き菓子は素材そのものの味が出るのでごまかしがきかない分野であり、噛むことの大切さを訴えたいので林さんは特に力を入れているそうです。

  二つめは自分が感じていやだと思う素材は使わずに、納得できるものだけを使うということです。一般には膨らみを良くするために使われるベーキングパウダーもアルミフリーであっても使いません。原料は一つ一つ自分で素材を集めます。粉は金子製粉の国産・中力粉を使用します。金子製粉の粉は低速回転で熱を加えずに丁寧に挽かれているので小麦粉自体に味があり、麦の風味・素朴さが感じられ、お菓子にした時に粉そのものの美味しさが感じられるそうです。また、オーガニック原料は安全なだけでなく食味としても優れており、例えばナッツは防腐剤は使用しないのでいやな臭いがしなかったり、あんずは漂白されないので濃厚な味と香りがあり、そのため美味しい菓子ができるそうです。

  三つめは全て個人で手作りしていることです。同じものでも作り手が変わると品質も変わり、慣れた人なら味の違いもわかるそうです。また、気持ちが入っていないとお菓子作りに失敗することがあり、林さんはそれを「つくり手が浮気する」と表現しています。別の言い方をすればお菓子が“嫉妬”するのかも知れません。確かに料理教室などで材料は同じなのに、出来上がったものは作り手それぞれによって違ってきます。オーブンで焼く以外は手作業の工程が多いだけに、直接作り手の力(パワー)や気持ちが製品に出るのでいつも手が抜けないそうです。でもそこが手作りの良さであり難しいところでもあるようです。

 

お菓子から広がる世界

 

 林さんにこれからどのようなお菓子作りにチャレンジしたいのかをお聞きしました。「いろんな方たちの声にお応えできるように現在勉強中ですが、マクロビオティックやアレルギー対応のお菓子も作っていきたい」「また、ベーキングパウダーの代わりに自家製酵母の発酵の力を借りてカリカリ感が多い、ビスケットのようなスコーンを2008年の秋からお届けできるように準備したい」とのことでした。

  自分(たち)の食や生活を全て変えることは難しくても、おやつからなら始めやすいのではないか。良くないとわかっている素材を使ってお菓子を作るのは心苦しい。そんな想いが今の「おやつ堂 のあ」のお菓子に繋がっています。最近、林さんは素材の品定めも大事だが、食べ物にこだわりがある人もそうでない人も共有できるものが、食べ物への感謝・食べることへの感謝ではないかと気づいたそうです。感謝をしていただくというのは、何より心の栄養になるとのこと。そんな日々の思いや、食や環境のこともブログで綴っています。

 

●「おやつ堂 のあ」ブログ http://blog.goo.ne.jp/oyachudou-noha/

 

<取材:2008.7.4>

自宅の看板は手作り感いっぱい!

卵の力で、ベーキングパウダーなしで膨らませます。

手づくり無添加の焼き菓子屋さんが伝えるメッセージ

自宅を改装した一角ではお菓子以外にフェアトレード商品も置いています。

社会福祉法人「むつみの里」

「むつみの里・であい工房」のケーキ作り

 

 バレンタインシーズン目前、私(金谷)が2008年の1月14日にケーキの打ち合わせと兼ねて「むつみの里」にお伺いしました。お菓子は曜日を変えて作っているそうで、2名の通所者の方とスタッフの池田さんがガトーショコラを作る準備をしていました。ケーキ台の上にいくつかの材料が並び、まるで家庭でケーキを作っているようなこじんまりとした感じでした。

  ガトーショコラは卵白にグラニュー糖を加えメレンゲを作り、卵黄にはグラニュー糖と生クリームを混ぜます。それぞれ大きなボールに入れよく混ぜた後、小麦粉やココア、溶かしたバターやチョコレートを加えます。生地がうまく溶け合うようにひたすらかき混ぜるのがコツ。手際よくそれぞれ混ぜる人と洗い物をする人が分担され、混ぜ合わせたものは計量され大・小の型に入れます。容器を揺らしたり箸で生地をかき混ぜ、表面を平らにします。こうすることで焼き上がりが均一なケーキができます。その後、オーブンに入れて40分ほど焼くと出来上がり。1回の工程で大きなケーキの型だと10個できます。

  「であい工房」のケーキ作りは生地の泡立てに泡立て器を使う以外は、全て手作業。見ているとなかなかの力仕事です。バレンタインの季節には2台のオーブンがフル稼動するそうです。ガトーショコラは「であい工房」のケーキでも人気があり定番品となっていますが、みどり共同購入会の会員の皆さんにお届けするのはノヴァのチョコチップを小型ケーキで17gも使った特別仕様です。このチョコレートはココアバターの含有量が多く乳化剤を使っていないオーガニックのクーベルチョコ。スタッフの方のお話では市販のものと風味がぜんぜん違い、これを使うと更に美味しくなるそうです。

 

事業活動の3つの柱

 

 「むつみの里・であい工房」の主な仕事は3つあります。事業収入は、内職などの受注作業を3としたら、ケーキやクッキーなどの製造が2、ぼかし肥などが1の割合となっています。内職は落ち着いてみんなでコミュニケーションをとりながらできます。会のスタートから行っている大切な仕事で、同じ作業を繰り返すことで入所者の方の職業訓練や生活のリズムを作ることができます。

  1995年からはぼかし肥の工房を建設し販売を始めました。「であい工房」では生の籾殻は発酵が悪くなるので入れずに炭にした燻炭に変え、発酵菌をよくするため嫌気性のEМ菌だけでなく好気性の菌を入れています。こうすることで湿気が多く冬が寒い富山県の風土に合うぼかしを開発することが出来ました。

  1997年からケーキ作りの販売を始め、現在国産小麦や北海道産バターを使ったクッキー製造も行っています。ケーキやクッキー・マドレーヌは安心で安全で、“うまいもん”(美味しいもの)を目指して改良してきました。クッキーは四角い型に入れ手作業で格子状に裁断し食べやすくするとともに、生地をいったん冷凍することでサクサク感を出しました。販売はイベント関係の出店が多いのですが、上市町の役場や総曲輪通りのチャレンジショップなどに置いています。桜の花や葉の塩漬けを入れたさくらケーキ。作業所の前の栗の木から収穫した栗を使った栗ケーキなどユニークなケーキもあり、最近お菓子の売上げが伸びています。

 

「むつみの里」の活動の広がりと今後

 

 「むつみの里」は上市町の社会福祉法人で、就労継続B型の「であい工房」と地域生活センター「自然房(じねんぼう)」を運営しています。2つの施設で9名のスタッフと中新川郡・富山市の5市町村から44人の方たちが通所しています。地道な取り組みの中で、精神・知的障害者を対象にした仕事作りや就労支援から生活相談や交流・創作活動の場を作ってきました。2008年4月にはグループホーム「正印(しょいん)」を開設し、家族的な憩いの場を提供します。会の出発は上市厚生病院(現在のかみいち総合病院)の精神科の患者さんたちの退院後の居場所作りからでした。1989年に家族会の皆さんが中心となって2名のスタッフと共に6畳3部屋の民家を借り小規模作業所「むつみ共同作業所」を開設し、2002年に社会福祉法人として認可され現在に至っています。

  20年が経過し「むつみの里」の活動は地域の人たちに支えられ着実に広がってきましたが、厳しい課題もあります。2006年に制定された障害者自立支援法によって、障害者の作業所は自立支援給付対象事業と地域生活支援事業に分けられました。行政から目的に応じて補助金や給付金が支給されるようになり、「であい工房」の作業所は自立支援給付事業として障害者がサービスを利用すると所得に応じた1割の負担を迫られるようになりました。生産性が上がらなければ少ない賃金では施設利用料が払えず、障害者が家庭を出て社会参加の道も閉ざされてしまう事態となりました。そんな中で「むつみの里」施設長の碓井裕子さんから「通所者の賃金はとても安いが、せめて通所者が負担する利用料以上に賃金を増やしたい。そのためにも今まで以上に自立した事業を増やしたい」と抱負を語っていただきました。

 

 みどり共同購入会ではフェアトレードの商品だけでなく、こうした福祉作業所の商品も取り組みを広げていきたいと考えています。現在、「むつみの里・であい工房」とクッキーやマドレーヌなどのお菓子の取り組みも行っています。

 

 

<取材:2008.1.14>   

オーブンは家庭用より少し大きな位

美味しいガトーショコラが焼けました

事業の柱として成長してきた「むつみの里」のお菓子作り

通所者の皆さんがクッキーを型にはめています。

NPO法人「わっぱの会」

パン工場を見学しました

 

 みどり共同購入会では「NPO法人 わっぱの会」と、クッキーなどの洋菓子や農産加工品まで年間を通していろいろな品目に取り組んでいます。2008年1月4日に「わっぱの会」の中心施設の名古屋市北区大曽根にある「ワークショップ すずらん」に私(金谷)と風屋共同購入会の杉浦さんが訪ねました。 ここは1つのビルになっていて、1階がパン工場、上の階は生活の場として10名ほどの人たちが住んでいます。この日「わっぱの会」ではパン工場だけで仕事が行われており、中では15名ほどの人たちが働いていました。そのほとんどが障害がある人たち。なかにはかなり重度の身体障害者の方もいましたが、パン生地をこねたり、焼釜に入れるトレーに油を塗ったり、容器を洗ったり……皆さん自分なりの仕事を見つけ働いていました。案内をしていただいた大倉さんのお話によると「正月明けなので人は少ないが、いつもは3倍くらいの人たちが働いている」そうです。障害者の作業場では職員と障害者の立場が明確に区分けされ、障害者を管理したり指導することが多いと思いますが、そうした光景とは無縁な様子が感じられました。 「わっぱの会」では事業収入を得て働く人々に払う給与のことを分配金と呼んでいますが、ここでは毎月12〜18万円のお金を保障しているそうです。そして、全体で約180名の人たちが働いていますが、そのうち約6割は障害を持つ人たちだそうです。

 

3人の若者から広がった取り組み

 

 「わっぱの会」が生まれたのは1971年のことです。障害のある人もない人も共に生きていくことができる社会に向け、1人の障害者と2名の健常者が一緒に暮らしたことが始まりでした。やがて活動の輪が広がりおおぜいの市民の協力を得て「ふくえ共同作業所」が建設されました。仕事はダンボールの加工が中心でしたが、1984年に新しい仕事として国産小麦使用・無添加パンの製造を始めました。パン製造は今では「わっぱの会」の中心的な事業となり、クッキーやクラッカー・洋菓子などの製造販売も行っています。現在「わっぱの会」では6つの共働事業所と障害者の就労援助・生活援助として「なごや職業開拓校」などの場を持ち、12の生活共同体を運営しています。 事業を進めると共に「わっぱの会」では障害者への差別や偏見をなくすための運動や、障害者が地域で暮らしていける社会への取り組みも行っています。車いすの市議会議員を議会に送り名古屋市でバリアフリーの政策を実現させ、96年には市に重度障害者への介護サービスを開始させました。一般企業への障害者の就職支援にも力を入れ毎年数十名の就労を実現してきました。

 

ビジネスセンスある商品の開発

 

 「わっぱの会」では、製造される商品を消費者のニーズに応え市販品とも競合できるものにするために毎月話し合いの場を持っています。「わっぱん」は共同事業所としては初めての国産小麦を使用したパンですが、今では天然酵母パンからアトピーの子どもたちにも対応できるパンまで全部で数十種類のパンを扱っています。クッキーはいち早く、原材料のマーガリンをトランス脂肪酸の値がほとんどないショートニングに切り替えました。チョコレートは乳化剤が無使用の第三世界ショップの製品にしました。小麦アレルギーの子どもたちのために米粉だけで作った製品も試作中です。一般企業で2年間働いてここに飛び込んだ「クッキー工房ふくえ」の前田さんに職場の魅力を聞くと、「みんなで困ったときに助け合う繋がりと土壇場の強さがあるところです」という答えが返ってきました。 「わっぱ知多共働事業所」は2000年に生まれました。農場は6haあり約30名が就労していますが、主に精神障害者の方々が働いています。スタッフの島田さんのお話では、昨年は農薬を使用せず露地栽培で育てたイチゴジャムを1トンほど作ったそうです。農場では収穫された加工品の製造と自家製製粉機で小麦の製粉を行い、県内外の自然食の業者などに卸しています。小麦粉は県内の製麺業など業務用として扱ってもらえる業者の方が増えつつあります。今後はパンやクッキーなどの小麦を農場産のものに切り替えるのが課題だそうです。 「わっぱの会」の製品は共同購入グループや生協などに卸しているほかは、引き売りや駅前などで直売しています。クリスマスの定番となっている「ケーキ台」の受注数などを聞くと、県外の販売先ではみどり共同購入会は大口のようでした。私たちは無添加で温かみがある手作りの製品として企画してきましたが、お話を聞くとさらに食べ続けることで応援する意味を感じることができました。

 

<取材:2008.1.4>

わっぱんパン作りの様子

わっぱの会 クッキーの製造

障がい者と健常者が共に生きるために始まった

パンと菓子の工房です

「ワークショップすずらん」でパンの成形をしていました

パン工房「ブレッド 」 堀 貞一・治美さん

夢だったお店をオープンしました

 

 店主の堀貞一さんは若い頃からパン好きだったそうで美味しいパンを求めて金沢市まで買いに出かけることがよくあったそうです。それならいっそのこと自分でパンを作ってみようと、7年間勤めた鋳物の職人の仕事を止めて1年間パン作りの修業をしました。その後、1991年に高岡市中川原で最初のお店を始めました。パンを焼くだけでなく、コンサートやギャラリーなど人が出会う空間を作りたいと現在の西田地区に移転したのが2004年11月のことです。お店では長男の竜平さんが跡を継ぐことになり、奥さんの治美さんなど計8名のスタッフで切り盛りしています。ログハウスのお店ではゆったりとした喫茶スペースも設けられ、ご夫妻の人柄からかいつもお客さんでにぎわっています。

  堀貞一さんは登山やハイキングが趣味で十数年間山に行っていますが、今はお店が忙しくなかなか休日に外に出かけられないそうです。その分、週2回太極拳に通い自然のリズムを自分の中に取り戻そうとしています。「人間が自然の一部であり、自分の意思でやっているように見えても自然の大きな力の中で行っているんです」と自然体で堀さんは仕事をこなしていきます。

 

街のパン屋さんとしての一日

 

 ヨーロッパはパン食の文化が息づいており、街のパン屋さんで売られるパンは食事パンやチーズやワインなどお酒に合うパンが今でも好まれています。それに対して日本のパンは菓子パンに代表されるおやつパンや惣菜入りのパンが中心で、その生地は白くて柔らかいものが主流です。「ブレッド」は食材として利用されるパン店さんを目指し、地元のフランス・イタリア料理のお店にもパンを届けています。

 街のパン屋さんといっても最近では、早い時間からたくさんの種類を並べるために冷凍の生地を工場から運んでそのまま焼くだけというところも増えています。「ブレッド」は惣菜関係のパンの種類は少なく10時から店をオープンするので、朝は比較的遅く6時過ぎに窯の火入れを行います。7時くらいから次々にパンを焼き上げ、14時くらいには全てのパンを品揃えできるようにしています。堀さんたちがほっと一息つけるのは16時ごろ。その後も翌日の食パンの生地をこね、お店は20時まで開けています。こんな堀さんのお話を聞くと街のパン屋さんは毎日働く時間が長時間、やっぱり好きでないと勤まらない仕事だと思いました。

 

みどり共同購入会の会員の皆さんのために焼くパン

 

 お店で販売している天然酵母パンの定番は、くるみパンとカンパーニュです。天然酵母パンの種類が増えるのは月1回、みどり共同購入会の会員向けの企画があるときです。特に石窯で焼いたパンは薪をたくさん使い、採算を考えたら合わないので、堀さんは「趣味の世界です」と笑って話されます。石窯の遠赤外線効果で焼いたパンは時間がたっても香ばしく、美味しさが長続きするので会員の皆さんにも好評です。お店に臨時に品揃えされるのを楽しみに待って買いにこられるお客さんもいるそうです。

  取材の後、堀さんから「モノを求めてつながっているだけでない、会員とみどり共同購入会とはお互い尊重しながら続いてきた“縁”をこれからも大切にしたい」との言葉を頂きました。古くからの会員のアドバイスとして、大切に受け止めていきたいと思います。

 

<取材:2009年12月>

ログハウス風の建物のブレッドの店内

息子の竜平さんも後を継ぐようになりました。

自然体で営む堀さんご夫婦のパン工房ブレッド

ブレッドのお店と堀貞一さん

 
Meister かきぬまs Backstube 柿沼 理さん

お店誕生までの歩み

 

 「Мeister かきぬまs Backstube」のお店は名古屋市千種区にあります。少し離れた名東区には柿沼 理(おさむ)さんのお父さんが代表を務めるオーガニック・カフェ「ポランの広場」と自然食品店「Sonne・Gaten」があります。この3つは地元の生産者の野菜や自然食品の販売、調理を始め、新しい生活文化の発信の場として地域の人々に親しまれています。

  ここのパン作りの始まりは20年以上も前になります。お母さんの中久木さんが子ども達に安心できる食べものを与えたいと、国産小麦や無添加・農薬不使用の食材を使ってパンを焼き、自然食品の販売を始めました。その開店資金は友人たちから集めたそうです。中久木さんは自ら経験を積む中、独自にパン作りを学んでいきました。当時、天然酵母と言えば星野天然酵母以外流通していない時代でしたが、原料の酒精の強い臭いを感じるため、酵母は自分でぶどう酵母を作ってパンを発酵させていました。

  そんな母親の姿を見てパンの修行を始めたのが息子の柿沼 理さんです。柿沼さんは1992年に大阪あべの辻調理師専門学校を経て、翌年に辻製パンカレッジを卒業しました。そして修行のためにドイツに渡ります。製パンと製菓のマイスターの資格を取得した柿沼さんが日本に戻ってきたのが2004年のことでした。しばらくは「ポランの広場」の中でパンの製造をしていましたが、2006年に現在の場所で「Backstube」として開店しました。

 

ドイツのパン作り

 

 私(金谷)が取材したこの日(2008年1月4日)、柿沼さんにドイツのパン作りについてお話をお聞きしました。ドイツは厳格な職人(マイスター)制度を守っている国です。パン職人となるために最初は見習いから始め、2年半から3年の経験を積みます。その後、試験を受け合格するとさらに同じ期間修行し、再び試験を受け合格した者だけがマイスターとして認められ、自分のお店が持てるようになります。こうした制度があるのでドイツではパン職人の人たちの間で一定の知識と技術が共有され、パン作りのレベルが一定の水準に保たれています。様々な技術や経験を持った人が共存し、すぐにお店が出せる日本とは大きく異なる点です。

  小麦を使った長い食文化の中で育てられてきたドイツのパンには、日本の一般的なパンとの違いもいくつかあります。ドイツのパンは食事の主食であり、パンの中には余計なものを使いません。日本のパンのようにパンの上に惣菜や菓子材料を乗せたり、パンの中になにか挟むことはあまりありません。ただ、ドイツパンといっても全てがリーンなパンではなく、最近では乳製品や卵を入れたパンや菓子パンの割合も増えているそうです。

  柿沼さんはドイツパンの技術は受け継いでも、日本のパン屋として作るものはハードなパンとソフトなパン、半分ぐらいの割合でいいと考えているそうです。

 

「Backstube」がめざすもの

 

 店内にはパンを焼くための石窯が2台設置されていました。当初はガス窯と併用する予定でしたが、石窯と普通の窯でパンを試し焼きしたところ食味の違いに驚いた柿沼さんは、迷わず全てのパンや焼き菓子を石窯で焼く決心をしたそうです。私が「石窯パンは窯が小さく温度管理の手間もかかり、技術的に難しいのではないですか」と尋ねると「自分としてはそんなに難しいものだと思っていないのです」とさらりと答えが返ってきました。小麦についても「アメリカの小麦と違ってドイツの小麦はグルテン分が少ないので、国産小麦でも今までの技術が生かせていろいろなバリエーションのものが作れます」とのことでした。お店ではオーガニックのライ麦粉以外の小麦粉は岩手県産南部小麦を使用しています。

  私は「Backstube」のパンは天然酵母を使用したパンの中では時間がたっても酸味や雑味がほとんどないパンだと感じていました。しかし今ではお店で作っていたドイツパンについて柿沼さんは酸味を多少感じていたため完全に納得できておらず、これから新しい試みを始めます。ドイツで毎日作っていたライ麦を使用した本格的ドイツパンを作ってみるために、今後毎月何種類かは酸味が出にくい有機天然酵母と自家製天然酵母をブレンドして発酵させるとのことでした。

  奥さんの幸子さんもパンとお菓子作りのマイスターの資格をもっていらっしゃるとか。今は子育てまっ最中の様子でしたが、今後はパンに続いて美味しい焼き菓子の種類も期待できそうです。

 

  現在、みどり共同購入会では毎月2回、10〜15種類の「Мeister かきぬまs Backstube」のパンや洋菓子を企画しています。食パンやライ麦パンはこうした事情で酵母の配合が変わり、更に美味しくなりました。リーンな食事パンからカラフルな菓子パンまで、一つ一つのパンの個性が実感できるお店です。

 

<取材:2008年1月4日> 

パンとお菓子は全て石窯で焼きます

ドイツで学んだ柿沼さんは

日本に合った自家製天然酵母のパン作りを進めてきました。

パン工房スタツフの皆さんと (左端が柿沼さん)

有限責任事業組合 ビーフレンドとやま 佐伯元さん 

佐伯さんの軌跡

 

  富山で養蜂業を営む43歳(注: 2009年現在)の佐伯 元(さえき げん)さん。10年前に富山県立山町の実家に戻り母親と同居することになるまでいろいろな職業を経験しました。サラリーマン時代から農業に関心があり、「日経ビジネス」という月刊経済誌に紹介された安全な食を求める共同購入組織「大地を守る会」に5年間在籍しました。ここでは様々な生産者との出会いがあり、佐伯さんにとってここは生き方の指針を決める“学校”のようなところだったそうです。ここでドイツの塗装メーカー「リボス」の存在を知ることになります。外国では口に入れても安全な素材で建築の塗装材料が作られていることに驚き、その後、建築関係の仕事に就きこうした分野の勉強を始めました。

  久しぶりに戻った故郷は休耕田が広がり、佐伯さんは中山間地の荒れた風景を目にすることになりました。ヨーロッパにホームファーミングという言葉があります。ガーデニングから一歩進んで食の自給だけでなく、農的な生活の分野を広げ地域の中でも地場消費を目指していく考え方のことですが、ヨーロッパではこうした形態で仕事を作っているグループが存在します。高齢化が進む日本であと10年もすれば農業をやる人がいなくなってしまうのではないか。佐伯さんは未来を見据え新しく農業を始める人たちの基盤を作りたい、その核にミツバチを飼うことを据えていこうと考えたのでした。

 

「ビーフレンドとやま」の活動

 

 佐伯さんは無償のボランティアでなく社会貢献とビジネスを両立させる方法として、2005年に有限責任事業組合(LLP)の「ビーフレンドとやま」を設立しました。有限責任事業組合は新規事業拡大のため経済産業省が2005年の8月に認可したばかりの事業組織です。従来の会社組織より出資者の自由度が高く、非課税で利益が出た場合は出資者で分配できるのも特徴で、富山県で2番目の申請となりました。今の日本で公共性の高いことの一つが、食料自給率を上げていくことです。そのために新規就農者を地域で増やしたり、農業に理解ある消費者を増やすことが「ビーフレンドとやま」の活動目的です。

  「ビーフレンドとやま」は主に2つの活動を行っています。蜂蜜を中心とした農産物の販売と蜜蜂の飼育を広げていく啓蒙活動です。蜂蜜はみどり共同購入会の他に主に直売所やお店、インターネットでの販売を行っています。今後は加工品や中山間地で会員一人一品ごとの特産品を作り、直販所での販売網を広げ地元の農産物の流通を広げていきたいと考えています。上市町に加工所建設も進めています。

  養蜂は佐伯さんが小矢部市の養蜂家から飼育法を学びました。流通組織で働いた関係で生産者と消費者、お互いが求めているものを知りうる立場にいたことが幸いしました。外国と比べて養蜂業の伝統が短い日本では、佐伯さんはミツバチの血統や採蜜の方法・道具などで改良する点があることを感じました。消費量も隣の韓国の1/5位しかなく新規に参入できる余地があり、きちんとしたものを作れば消費も増える状況にあります。家業として続けられることが多かった国内の養蜂業ですが、「ビーフレンドとやま」はミツバチの飼い方を一般の人たちに広め、県内では30名余りの人たちが新たにミツバチを飼い始めています。そして、蜂蜜だけでなく加工品の蜂蜜漬けや蜜ろうを使った石けんやワックスなど様々な用途の製品化を模索しています。

 

現在の土遊野農場と共同購入会の取り組みミツバチから広がる夢、菜の花から広がる夢

 

 佐伯さんは蜜源を求めて朝日町の篤農家と知り合いました。ここでは2009年に3町歩の菜の花が植えられ、翌年には4町歩に面積を広げる予定です。朝日町では地元JAを通してなたね油の製油も行うようになりました。春の景観を彩る菜の花はなたね油の原料だけでな、BDF燃料などに利用され、「菜の花プロジェクト」などで全国の地域おこしの象徴となっています。佐伯さんは菜の花を油にせずそのまま畑にすきこみ緑肥に活用していこうと考えています。化学肥料は今後高騰しお米の生産原価は上がることが予想されますが、米価の低迷は続いています。肥料を自給して、菜の花の蜂蜜売った代金で種代や耕運機の燃料代を捻出すれば中山間地でもコストを下げたお米作りができるのではないかと実験中です。富山県内でも上市町や高岡市など、ビーフレンドの仲間たちが菜の花を休耕田に植える取り組みをしています。しかも、そのお米は「への字農法」の一つとして農薬や化学肥料に頼らず、安全な方法で栽培されています。

  「一次産業は自分で作り、加工し、販売すればある程度の所得でも食べていける産業なのです」と佐伯さんは自信を持って語ります。20〜30歳代の若者たちの就職難の時代に、農家の人間でなくても農業で生活できるモデルを広げていきたい。佐伯さんのチャレンジは続きます。

 

<取材:2009.9月 >

蜂が蜜をためています

富山市の住宅地の中にあるミツバチの巣箱

実家がある富山に戻った佐伯さんが始めたのは

ミツバチを通してのネットワーク作りでした

採蜜をする佐伯さん

 
(株)片山 片山雄介さん

 オーガニックワインを除いて共同購入会では(株)片山さんを通してお酒の取り扱いをしています。ここで取り扱うお酒はキラリと光る個性を主張したものばかり。神奈川県川崎市にあるお店を訪れ、私(金谷)が代表の片山さんにお話をお聞きしたのは2月26日のことでした。

 

(株)片山と片山雄介さんの歩み

 

 片山さんは7人兄弟の5番目に生まれ、自由な家風の中で育ちました。お父さんは川崎市で3軒の酒屋を経営していましたが、片山さんは家業から離れ新しい世界に関心を持ち北海道の酪農学園に入学しました。大学では農閑期を使ってたびたび興農塾や滝本農園などを訪れました。北海道で安全な農畜産業のさきがけとなったところで、片山さんは有機農業や堆肥作りの中で微生物が織り成す発酵の世界の面白さを知ることになります。

 28歳のときに片山さんのお父さんが他界されます。1984年に家業を継ぐ時に片山さんが始めたことは、伝統的な農と醸造文化を生かした蔵元と提携したお酒や醸造食品の卸販売事業でした。片山さんは、こうした方面なら今まで学んだことが仕事として生かしていくことが出来るのではないかと考えたのでした。当時日本酒は醸造用アルコールや糖類を添加し、各地の小さな蔵元から桶ごと購入して画一的な味をブレンドしている大手メーカーのお酒が幅を利かせていた時代でした。

 片山さんは米と米麹だけで作った伝統的な作り方を守った各地の蔵元を訪ね、志のある酒造メーカーと直接提携を始めました。農業への関心があったことから、原料米も可能な限り農薬の使用量を減らし、周囲の環境に配慮しているものを(株)片山で取り扱うお酒の基準とし、いわゆる自然酒の専門店としての道を確立することになります。

 

片山さんが求めるお酒とは

 

 日本酒では仁井田本家が作る自然酒・金寳の取り扱いを始め、アルコール度数の高く果実酒作りにも使える本格焼酎として小正醸造の玄米焼酎を共同開発しました。現在、(株)片山で取り扱っているメーカーは約60社。(株)片山で扱う酒は、一つ一つ片山さんと蔵元の「縁」によって繋がり、将来にわたって関係が続けていけるお酒を選定しています。

 (株)片山では今ブームになっている、オーガニックワインや吟醸酒などはあまり品揃えはしていません。私が片山さんに「どのようなお酒を消費者の方に勧めたいのですか」とお聞きすると「酵母が生きているお酒を積極的に勧めたいですね」という答えがかえってきました。共同購入会ではまだ扱っていませんが、(株)片山では無ろ過で火入れしていないどぶろくに近いお酒、玄米を原料にしたお酒、韓国のにごり酒などユニークなお酒を品揃えしています。そうした考え方で生まれたのが井筒ワインの生ワインでした。これは赤ワインブームのときに、白ワインが売れなくなってしまいメーカーと知恵を絞って生まれた商品で、無ろ過のため酵母菌が生き、微かな炭酸も含んだフレッシュなワインです。

 

会社や組織に対する片山さんの考え方

 

 1991年に片山さんが呼びかけ「生命踊る発酵と醸造」をテーマに作られたネットワークが和蔵会でした。和蔵会は他業者の方の参加もあり卸会社と生産者との取引の関係を超えて、農家や消費者をつなぐゆるやかなネットワークとして育ってきました。しかし、2000年に片山さんは自らの意思で会を解散しました。組織が大きくなり長い年月がたつと惰性で組織のための組織運営をしがちになる弊害を考えたためです。

 (株)片山では自らの経営テーマに沿った商品だけを扱い、無理な営業活動をせず会社の規模もむりやり大きくするような方法はとりません。片山さんは流通組織が大きくなると小さな蔵元との関係が一方的となるし、働いているスタッフのことや扱っている商品のことを見える範囲でやっていきたいと考えているからだそうです。

 そんな片山さんが最近新たに始めたのが和蔵塾です。これは将来の世代に向けて、若手経営者や次期酒造りの現場担い手を対象に泊りがけで行っている研修会です。各地の米作りや発酵と醸造の生産現場を訪れ、若手に発言の機会を与えて酒業界に新しい刺激を与えようという試みです。お店では毎月1回イベントを開催してきましたが、来年はお店を改装して1階はコミニティマーケット、2階はみんなが集まれる食堂にするそうです。川崎市古市場にあるこの地域はかつてはにぎやかな商店街として人であふれていたそうです。地域の人々びとが気軽に足を運び、高齢者にもゆったりとくつろいでもらえる居場所作りをしたいということでした。

 

 帰り際、片山さんのお店にお寄りしました。野菜や惣菜や発酵食品などが所狭しと並べられ、酒屋というより自然食品のコンビニのようなお店でした。次に、ここを訪れるときにどのようなお店に変わっているのか、私はわくわくするような気持ちで片山さんとお別れしました。

 

<取材:2011.2.26>

倉庫の前はイベントスペースです

店内ではお酒の量り売りも

(株)片山はお酒を通して生産者・蔵元と消費者をつないできました

お店の前で撮影させていただきました

(有)共済農場   大久保嘉子さん

「ふらのジャム園」との提携の始まり

 

 今から30年近く前、私(金谷)は新婚旅行の訪問先の一つとして北海道・富良野に行きました。富良野市郊外の麓郷の森は放映されてきたテレビドラマ『北の国から』の舞台の場所。観光名所となった撮影現場を訪れた際に、たまたま「ふらのジャム園」と書かれた手作りの看板が目に留まり、ここに立ち寄ったのでした。作業小屋のような売店でジャムを購入し、試食してみるとその美味しさに感激。以後私は北海道に行く機会があれば「ふらのジャム園」に立ち寄ることにしています。 昨年福島の原発事故以降、食品の放射能汚染が懸念されていますが、特に低木のベリー類などの果物は放射性物質が蓄積されやすいと言われています。北海道産の果実を中心にした「ふらのジャム」なら会員の皆さんにも安心してお届けできるだろう、そう考えて共同購入会と提携を始めさせていただいたのは、今年5月のことでした。お付き合いする産地にはできる限り直接お伺いしてお話をしたいと考え、私が「ふらのジャム園」を訪れたのが8月15日でした。おおぜいの観光客で忙しい中を、スタッフの皆さんに快く応対していただきました。

 

共済農場の歩み

 

 共済会という会員約千名の全国組織の一つの事業として共済農場が設立され、農場で運営されているのが「ふらのジャム園」です。共済会は「共に助け合って行こう、共に産み出しあって行こう、そして共に栄えて行こう」という共済の精神のもと、老人ホームや保健施設、海外への交流事業なども行っています。 この日、共済農場の創立メンバーの一人であり代表の大久保嘉子さんにお話をお聞きすることができました。大久保さん夫妻は共済農場の理念に共鳴した5人の若者と共に1974年に入植。しかし、麓郷の森は500m以上の標高があり採れる農作物は限られ、短い夏が終わるとすぐに冬支度が始まるという厳しい自然条件の土地でした。どの家にも祖父母や親がいて経験や技術を教えてくれますが、大久保さんたちはこうした農業の先輩もいない中で手探りで開墾を続け、9年後に残ったのは大久保さんご夫妻だけとなりました。 入植した仲間は去りましたが、新しく始まったのが加工部門としてのジャム作りでした。嘉子さんは足が悪く農作業に専念できなかったこと、果実栽培の盛んな道内の増毛町出身だったので市場に出せない果物をもらう機会が多く、栄養士の資格を生かしてジャム作りに取り組みました。当時、農家が自分で加工して製品作りをすることは珍しい時代でしたが、手作りの良さを生かした「ふらのジャム」は、美味しさと高い品質で評判を呼び、大手デパートでも取り扱われるようになりました。折から『北の国から』の大ブームで観光客も押し寄せるようになり、農場としての経営も徐々に安定し、現在は約20名のスタッフが働いています。

 

「ふらのジャム園」の施設の様子

 

 私は営業部のチーフマネージャーの青木さんに施設を案内していただきました。売店の隣のジャム工場は100坪のスペースがあり、5名のスタッフで毎日製造しているそうです。ジャムの製造工程は誰でも見学できるようになっていて、ジャム教室も開催しています。午前中は材料を選別しジャムを煮詰めアクを取る作業です。水を加えず素材の旨味をジャムに閉じ込めるために強火で一気に材料を煮詰め、扇風機で風を当て水分を飛ばします。午後からは製品の瓶詰め。防腐剤・合成香料・着色料などを使用せず、甘さを控えめにしているので最終工程で瓶を煮沸します。ジャムの原料果実はシーズン当初に下ごしらえして、年間の分を確保します。現在38種類ものジャムを製造していますが、北海道産のものは33種類。共済農場で生産したもの以外に、地元の富良野市や果実栽培が盛んな増毛町などから原料を集めています。 原料の良し、悪しがジャムの味を決めます。パンプキンジャムのかぼちゃは、つるが枯れるまで置いてでんぷん質が糖質に変わる完熟カボチャだけを使用します。ハスカップは農場で栽培したものだけでジャムを作ります。北海道では苫小牧や千歳がハスカップの主産地となっていますが、標高があり気温差がある富良野産のものは品質が良いそうです。 園内には国民的なキャラクターであるアンパンマンの作者漫画家のやなせたかし氏の直営ショップとプレイルームやギャラリーもあります。現地を訪れたやなせ氏がその風景を気に入って、2000年にやなせたかしの店「アンパンマンショップ」の唯一の支店を設立しました。無料で入場できるギャラリーにはアンパンマンのセル画や原画が展示されています。この絵には私から見ても大陸的な富良野の風景が取り入れられているような気がしました。 高台には麓郷展望台があり、「日本農村百景」のひとつにもなっている麓郷一帯の広大な風景を見渡すことが出来ます。展望台の周りは共済農場で、かぼちゃやベリー類の畑やお花畑が広がっていました。共済農場は43haの面積のうち25ヘクタールが畑です。ジャム原料の他、野菜を直接販売したり、ビール麦などを栽培しているそうです。 「ふらのジャム園」は訪れるたびに施設が立派になり、多くの人で賑わいを見せるようになりました。それでも昔ながらの手作りの製造方法と味が守られ続けているのは、代表の大久保嘉子さんの人柄そして共済の精神を掲げる共済会の理念があるからでしょう。

 

<取材:2012.8.16>

富良野市を見渡せる高台には展望台と農場があります

売店ではジャムの試食もできます

北海道富良野・麓郷の森から生まれたジャム作り

ふらのジャム園で代表の大久保さん(左から2人目)などスタッフの皆さんと

グリーンアイズ 森口鍛さん

映画の上映会前に森口さんを訪ねました

 

 コーヒー栽培の現状と流通の問題点が描かれた映画「おいしいコーヒーの真実」。2008年8月に富山市の映画館「フォルツァ総曲輪」で上映されました。みどり共同購入会ではフェアトレード団体やコーヒー店を通して何種類かのフェアトレードコーヒーを扱っています。生産者の収入を増やし安定した生活を支えていく草の根の取り組みで始ったフェアトレードですが、今はスターバックスを始め量販店の店頭でもこうしたコーヒーが販売されるようになってきました。フェアトレードのコーヒーが多くの人たちの目に留まり購入できる機会が増えることは良いことです。反面、生産者の思いやそれを作ってきた背景が語られずこうしたコーヒー豆が一般の豆と同じように並べて販売されていることに違和感も感じます。そんな中で流通の一端を担う私たちは今後どのようにすればいいのだろう。私(金谷)が悩んでいると、電話口でいつも快活にお話をされる京都の森口鍛さんのことを思い出しました。 森口さんはグリーンアイズという名前でコーヒー焙煎の卸業をしています。扱うコーヒーは全てフェアトレードでオーガニックまたはそれと同等に栽培されたものです。そのコンセプトは長年変わっておらず、日本のフェアトレードコーヒーの基盤を作ってきた一人です。ここを訪れたのは2008年7月10日のこと。京都駅から地下鉄で4つ目の竹田駅から少し歩いた路地裏のビルの1階にグリーンアイズがありました。森口さんは1993年に喫茶「氣樂堂(きらくどう)」を開きながらコーヒー販売を始めました。本人はモダンな店内でゆったりと時を過ごす喫茶店の店主になることを考えていましたが、激動の学生時代を過ごし今もその余韻が残る京都の地がそれを許さなかったのでしょう。あるとき森口さんは近代的な農場の姿を宣伝するためにコーヒー農園で多量の農薬を散布されているテレビ映像を見ました。それを見た後、好きなコーヒーの世界に関わりながら、学生時代に自分が問題提起したことを生かしていくにはどうすればいいのか。たどり着いた答えが、農薬を使用しないでコーヒーを栽培する生産者とフェアトレードによって直接取引を行うことでした。

 

グリーンアイズのコーヒー

 

 コーヒーは石油に次ぐ大きな国際金融商品で世界で毎日約20億杯のコーヒーが飲まれています。しかし、生産者が価格決定に参加できることはほとんどなく、近年コーヒーの価格の低迷が続いています。生産者原価は極端に抑えられ、1杯のコーヒーの中で生産者の手取りは販売価格の1〜3%以下であるとも言われています。産地の違い・生豆の選別・焙煎の技術によってコーヒーの味が大きく変わってくることから、焙煎された豆の販売価格は量販店向けと高級喫茶店で何倍もの差が生まれる食のグローバル化を象徴する商品となっています。 森口さんが焙煎したコーヒー豆は美味しい味と共にリーズナブルな価格によって口コミで評判が伝わり、今では自然食の宅配やレストラン・同業のコーヒー屋さんまで全国80ヵ所以上に届けるようになりました。56歳を過ぎた今でも朝から昼まで休みなくコーヒーの焙煎を続けています。週2日はお客さんの反応を確かめたいと自ら奈良や大阪まで配達も行っています。汗が噴き出る暑さの中、この日もクーラーもない約6畳の狭い部屋で休むことなく仕事を続けている森口さんの姿がありました。 グリーンアイズでは大手メーカーと違って一度に大量の焙煎を行わず、時間をかけてゆっくりと焙煎します。ブレンドコーヒーは豆の種類によって焙煎時間が違ってくるので、手間はかかりますが単品ごとに焙煎を行っています。かといって、小さな焙煎機だと立ち上がりの温度管理が難しく余熱をうまく使って一定の温度に保つことが難しいので、一度に10kgの豆を焙煎できる機械で、立て続けに焙煎します。森口さんは私と話している最中でも、焙煎は人まかせにせず、失敗しないようにたえず焙煎機の様子を見守っていました。

 

私たちが取り組むフェアトレードコーヒーの可能性

 

 フェアトレードのコーヒーしか扱ってこなかった理由を森口さんは「コーヒーは嗜好品で美味しくなければみんなに広がっていかない。フェアトレードのコーヒーは生産者を支援するからやってきただけではなく、そのコーヒーの品質が良かったから続けることができたのです」と言われました。コーヒーは亜熱帯〜熱帯地方で採れる産物で、収穫時期は産地によって違います。そんな豆を一定の品質にして味を保っていくのは焙煎者の技術ですが、森口さんは「自分の仕事は生産者が丹精込めて作ったものを生かしていくだけ、つくり手の生産者のほうに光を当ててほしい」と願っています。グリーンアイズの焙煎豆は生豆の価格から考えるとこれで“適正な価格だ”とも言われます。 取り扱いのコーヒー豆は自分の目で選び、オーガニックで生産者が丹念に作っているから品質は高く美味しい。そして、みんなが続けて飲める価格だから広がっていく…。それは品揃えの一つとしてフェアトレードコーヒーを扱う大手の流通組織のあり方とは全く違うものです。私はそこにみんながコーヒーを楽しみ生産者と共に生きていくあるべき姿と流通に携わる私たちの仕事の方向性を感じることができました。

 

<取材:2008.7.11>

焙煎の仕事が朝から続きます

 

フェアトレードコーヒーの先駆けとして

その可能性を追求してきたグリーンアイズ 

左が喫茶「木楽堂」で「右」が焙煎室になっています

 
飛騨酪農農業生産組合

飛騨酪農の牛乳

 

 みどり共同購入会と風屋共同購入会では、岐阜県内(高山市、下呂市)31戸の生産者を擁する飛騨酪農農業協同組合(以下、飛騨酪農)と牛乳の取り組みを行っています。 標高が高い飛騨地域は昔から酪農が盛んな所で、かつては多くの農家が牛を飼育していました。成牛からは牛乳が搾られ、乳が出なくなった牛は肉牛として、余分な小牛は販売され、牛を飼うことが農業経営の柱の一つとなってきました。高山市内の飼育農家は1985年には94軒もありました。現在、1軒あたりの飼育頭数が増加しているので全体の飼育頭数はあまり変わらず、生産者は高い専門性をもった酪農経営を行っています。牛は夏場1日180リットルの水を飲み暑さに弱い家畜ですが、一帯は夏場でも涼しい気温で山間にはおいしい水が流れます。そうした条件が質の良い牛乳を育てます。 飛騨酪農の特徴は、生産者と密接に結びついた酪農経営をしていることです。集乳エリアを限定し、地名と商品名を組み合わせた特産品の牛乳やヨーグルトを地域ブランドとして販売しています。また、中堅の乳業メーカーとして大手メーカーにはない、65度30分の低温殺菌牛乳やビン入り牛乳を会社の主力商品としています。低温殺菌牛乳は細菌数の少ない原乳でなければ取り扱いできない牛乳です。飛騨酪農では良い生乳を集めるために、毎日集乳し新鮮な原乳を確保します。乳脂肪・無脂肪固形分・細菌数・体細胞数の各基準をクリアした生乳に関して1リットルあたり1〜4円程度生産者の手取り価格を高くして乳質の改善に努めると共に、低温殺菌牛乳用には別途11円高く購入しています。低温殺菌牛乳を納入する生産者は細菌数を減らすための厳しい飼育管理を行い、非遺伝子組み換え飼料を与えることが義務付けられています。そのためエサ代も高くなるので生産者の確保に苦労し、低温殺菌の原乳を搾るのは5軒に限定されています。ビン入り牛乳は「ノンホモ飛騨」の900mlなどの他に、地元用に180mlのものを専用ビンで直接配達しています。

 

牛乳工場を見学して

 

 飛騨酪農の新工場は2009年4月、高山市新宮町に建設されました。2010年3月12日に地元の風屋共同購入会の杉浦さんと私(金谷)が訪ねました。工場は銀河高原ビールの跡地に建てられた2階建てのりっぱな建物で、工場内だけで33人の職員の方が働いているそうです。中では最新鋭の設備が導入されています。まずタンクローリーで集められた生乳は1階のタンクに貯乳されポンプで2階に送られます。タンクは乳脂肪や用途によって別々に分けられます。ここで、清浄機によって生乳に混入した人の目に見えないようなゴミまで除去された後、冷却・貯乳の工程を経て均質機により脂肪球が均質され、殺菌処理が行われます。「ノンホモ飛騨」は均質化しないので別ラインとなります。殺菌も超高温と低温と別ラインで行われます。 牛乳の他、ヨーグルトや乳製品などそれぞれ別個のパイプラインが設置され、2階にあるバルブによって調節し、時間を区切って殺菌された牛乳は1階に降ろされ容器への充填・包装され、製品となります。この日は翌日の配達がない金曜日で、1週間のうちで処理量が最も少なく、10時過ぎにはパック詰めが終わりラインの洗浄作業が行われていました。細菌を繁殖させないため毎日、タンクやパイプラインは徹底的に洗浄されます。案内していただいた中山所長の話では「現在の1日の集乳量が約37トン。組合として製品にしているのは約21トンで工場の処理能力にも余裕があるので、今後積極的に北陸地域や京都・名古屋地域に販売を広げていきたい」とのことでした。

 

2軒の生産者の牛舎を訪れました

 

 工場見学のあと2軒の生産者を訪れました。1軒は高山市内の山下秀治さん。ここは育成牛を含め約50頭の牛を飼育していました。牛舎の中には、毛づやが良い牛たちがいて衛生的で臭いもほとんどありません。糞尿はベルトコンベアで運ばれ、コンクリの床の上には木屑が敷かれ常に乾燥した状態に保たれていました。暑さに弱い牛たちのため風通しを良くしているので、夏場は牛舎の中のほうが涼しいそうです。山下さんは「牛乳の美味しさは乳脂肪分と無脂固形分のバランスによって決まるため、エサをどのように調整するかが大切なポイント」「飼育して難しいのは年間を通して一定の乳質に保つことだ」と話されました。中山所長のお話では山下さんは飛騨管内だけでなく東海地区でもトップクラスの乳質を維持する生産者だそうです。私が山下さんに「せっかく良い生乳を搾っているのでから、どうして低温殺菌用に生乳を出荷しないのですか」と聞いてみると、「飼料は牛の体調に合わせて自分で配合しているため仕入先が限定している餌を使うとうまくいかないのです」との答えでした。こうした技術をもった生産者が、エサを指定しているため低温殺菌用に出荷できない現状の難しさも感じました。 もう一軒は低温殺菌の原乳を出荷している高山市一之宮町の苅安牧場です。「モンデウス飛騨位山スノーパーク」というスキー場に隣接している場所で、5月中旬〜6月、9月中旬〜10月の間はスキー場に植えた牧草を食べさせるために牛たちを放牧しています。北海道でも、一年中牛を牛舎につないでいる牛舎が増えている中でこうした飼育は全国的にも貴重です。放牧によって牛たちのストレスを発散させることができます。ストレスのない牛は免疫力が強いので安全で美味しい牛乳を出すことができるということで、生産者の野添一幸さんは放牧を続けています。苅安牧場では育成牛を含めて約64頭と飛騨牛で有名な和牛を8頭飼育しています。ここの牛舎も臭いはほとんどありません。驚いたのは牛たちに餌を与える給餌装置。コンピューターによって、一頭ごとに与えられる量が決められ、人の手を借りずに餌が与えられていきます。これだけの頭数を家族で飼育するには、こうした装置が必要なのでしょう。苅安牧場は酪農教育ファームの認定農場になっていて、酪農や農業、自然環境、自然との共存関係を学ぶことができる受け入れ施設になっています。 この日案内していただいた飛騨酪農の営業担当の星野さんからは牛乳販売に賭ける思いと、中山所長の対応からは生産者とのつながりの強さを感じることができました。

<取材:2010.3.12>

飛騨酪農 製造風景

飛騨酪農農業協同組合搾乳

全国トップクラスの乳質を生産する生産者たちが作った

ユニークな酪農組合の飛騨酪農

案内いただいた中川所長

(有)生活アートクラブ

 共同購入会と提携している雑貨メーカーの一つが有限会社・生活アートクラブです。生活アートクラブでは“環境にやさしい”を一歩超えた、環境を育成する活動を伴った消費者参加型の製品を提案しています。その考え方には当会と共通することも多く、どんな会社なのかとても興味がありました。6月4日、私(金谷)が東京都杉並区にあるオフィスを訪れると、若い女性スタッフのばかりの華やかな感じのところでした。社長の富士村夏樹氏は1961年生まれのダンディな方。お話をお伺いすると、そんな風貌からは感じられない苦労の中で生活アートクラブを創り育ててこられた想いが伝わってきました。

 

富士村社長と生活アートクラブの歩み

 

 富士村氏は大学を卒業後、カタログ通販で有名な「千趣会」に5年間在籍。その後、腸内細菌の研究や販売を行う家業の手伝いを始めることになります。曾祖父は大正初期に、国内初のヨーグルト製造に着手した名声あるお医者さんでした。人間の身体は腸内細菌が免疫力を高め健康の維持に大切な役割を果たしています。祖父やお父さんの考え方に強い影響を受けた富士村氏は、人間が起こしていく生活環境の汚染は地球が健全に環境を維持する上で大きな問題となっていることを感じます。環境問題が地球規模で考えられるようになりましたがその地球環境や生活環境の汚染が三番目の環境、すなわち「腸内環境」に大きな打撃を与えていることを知った富士村氏は家業を離れ、2000年に生活環境改善を目的とした製品の普及活動をしていくための会社を立ち上げたのでした。

 最初の製品が「美葉うぉっしゅ」というリサイクルした廃油が原料の粉石けんです。その後4年間かけて「リカバリー」という台所用液体石けんを開発しました。「美葉うぉっしゅ」は家業と縁のあった北海道・苫小牧市にある障害者授産施設の「美々川福祉園」に製造を委託し、青森ヒバのオイルを入れることで廃油石けんの臭いを取り去り、洗い上がりがふんわりとした製品にしました。「リカバリー」は松の油をベースに、北海道で多く自生する千島笹の微粉末の炭を入れることで排水した後の川の浄化を図りました。売り上げの一部はカンボジアの井戸作りに寄付する仕組みを作りました。

 富士村氏は「いいものならばやがて世の中に受け入れられていく」という信念の下、環境や社会貢献で付加価値のある製品開発を進め、一品一品にこだわりとつくり手の想い=ストーリーのある製品を開発しました。そのことが、今日の生活アートクラブの原型となっています。

 

生活アートクラブの取り組みの広がり

 

 取り組みは水環境から川の浄化へ、そして農薬散布の問題へと広がっていきます。田畑に散布された農薬は土壌に浸透し川に流れ著しい環境負荷をかけていますが、富士村氏は、田畑に撒かれる何百倍もの量が殺虫剤やシロアリ駆除剤として使用されることを知り、住環境という最も身近なところで害虫駆除の仕事に取り組むことにしました。2003年に、ムシさんバイバイシリーズの防虫スプレーを販売します。従来家庭で使用される殺虫剤は農薬の専門家が作ったもので、湾岸戦争で神経障害を起こす要因として指摘されている「ディート」や「有機リン系薬剤」などもよく使用されています。それに対して、45年間害虫駆除に携わってきた専門業者と学者と提携してノンケミカル防虫剤を開発したのでした。

 青森ヒバは東北地方では「蚊殺しの木」として知られ害虫に対する忌避効果はもとより、抗菌効果やフィトンチッドで知られる精神安定効果があります。ヒバ油はオガ粉100㎏から1リットルしか取れない貴重なものですが、その中にヒノキチオールという天然の抗生物質が含まれており、その効能を生かしたのでした。安全な住環境をもとめる消費者の支持を受けムシさんバイバイシリーズは飛躍的に販売量が増え、奥さんと二人で自宅で始めた会社は事務所を構え、2006年には国産材利用を進める「3.9GREEN STYLE」の参加登録作業の承認を受け、国産材ショ―ルームも事務所に併設しました。現在、生活アートクラブでは1000種類を超える国産木材製品の取り扱いがあり、その普及活動が認められ2010年1月に林野庁の進める「木づかい運動推進部門」として農林大臣感謝状を受けました。

 

エコ雑貨から健康雑貨保全ネットワークへ

 

 現在では薬剤以外の選択肢も選べますが、最近まで家を新築する際は住宅金融公庫の融資基準としてシロアリ駆除剤の使用が義務付けられていました。しかも、多くの施主は駆除剤の使用は業者任せで、危険な殺虫剤が使用されていてもわかりません。そのため、シックハウス症候群など健康被害が大きな社会問題となっています。青森ヒバの知識や経験を生かして富士村氏が新たに始めたのが、自然素材を使ったシロアリ駆除事業です。既存のシロアリ業者と同じように5年間の賠償補償や無料の中間点検をつけることで、自然素材だけで不安な施主にも受け入れてもらえる体制を作りました。現在の施工実績は約1300棟、健康住宅保全を志している若い経営者と提携し全国の約12社、各地に拠点とネットワークを作っています。

 その他、塩素系薬剤を使用せず高温スチームや石けんなどを使ったハウスクリーニング、農薬を使用しない畳替えサービスなども始めました。

 エコ雑貨から始まった生活アートクラブの取り組みは、今では健康建物保全業として大きな広がりを見せています。富士村氏が仕事の広がりと共に大切にしているのは、生産者の「顔」を消費者に、消費者の「声」を生産者に伝える橋渡しの活動です。創業前のカタログ販売の経験と家業代々の想いを生かし、生活アートクラブのチラシやホームページにはストーリーのある製品が詰まっています。それを支えるのがデザイン関係を中心に仕事を進める女性ばかり12名のスタッフの皆さんです。

 つくり手の思いを伝えるのは「食」の分野に限りません。雑貨や住環境の分野でも事業を続けながら社会貢献をすすめていく生活アートクラブとスタッフ。共同購入会としてもこれから、様々な商品を会員の皆さんにお伝えしていきたいと考えています。                               (文責・金谷)

森づくりをテーマに自然素材・エコロジー雑貨の

企画・販売をする生活アートクラブ

 

(株)井筒ワイン

地元生産者と提携したぶどう園

 

 井筒ワインのワイナリーへは富山から高速道路を利用して4時間弱。塩尻駅から車で5分くらいの場所にあります。市内には9つのワイナリーがあり向かいには明日の見学地の五一ワインのワイナリーもありました。ぶどうの収穫真っ最中の季節とあって、ワイナリー裏手では生産者の皆さんがトラックで収穫したぶどうを満載して次々に運んでいました。 見学会を一日案内していただいた、井筒ワインの営業部長の鵜沢和さんのお話では、持ち込まれたぶどうは糖度検査が行われ、糖度が16度以上のものを全量買い上げているそうです。糖度の高いぶどうつくりをすれば収量が落ちるため、糖度によって価格差をつけて品質の向上を図っています。栽培場地元JAの基準に沿って行われますが、社内には4名の営農指導員があり除草剤を使用せず刈り取った草は肥料として農地に還元させたり、新品種の導入などの技術指導を行っています。ワインの残留農薬の検査では今まで農薬が検出されたことがなく、昨年放射能の汚染を測定しましたが1ベクレル/㎏でも検出限界値未満という結果でした。

 

自社農園のぶどう畑見学

 

 中央アルプスの麓にある標高7000mの塩尻市は昼夜の寒暖の差が大きく、日照時間も長く乾燥した地域です。ぶどう栽培に適し、120年前からぶどうの樹が採りいけられ、コンコード酒は個々でしか栽培されていません。井筒ワインでは塩尻市桔梗ケ原の150軒の契約農家と自社のぶどうだけを使用しており、栽培面積は50haほど(うち10haが自社農園分)に及ぶそうです。昼食後にワイナリーの近くにある井筒ワインの農場を見学しました。自社農園ではコンコード・ナイアガラが6割を占めます。残りは高級ワインの原料となる欧米種のぶどうです。欧米種のぶどうは雨に弱く病気が発生しやすいことから栽培が難しく、こうした品種の面積を増やしていくことが今後の課題となっています。 自社農園では23種類のぶどうが栽培されていますが、この畑だけでも8種類のぶどうが植えられていました。試食させていただくとそれぞれに個性があり糖度も高くおいしいぶどヴでした。生食用のセットにすれば会員の皆さんに喜んでいただけると思ったほどです。今までは作業性と収量を重視してぶどう棚で作る「棚作り」が一般的でしたが、最近では生垣のように作る「垣根栽培」を増やしているそうです。この方がぶどうの房一粒一粒に日光が当たるため、糖度か高くなり品質の高いぶどうができるそうです。

 

ワイナリーの見学と井筒ワインの取り組み

 

 その後、ワイナリーの中に入って醸造施設や地下貯蔵庫へ。持ち込まれたぶどうは果汁を圧搾し、酵母を加え発酵へと進み、上澄みや不純物を取り除く清澄やろ過などの工程を経て熟成されていきます。醸造施設ではいくつもの大きなステンレスのタンクが並んでおり、発酵している最中のタンクの中を特別に覗かせていただきました。炭酸ガスから発するシュワーという音と共にやや甘い発酵臭がして、私は力強い酵母菌の生命力を感じました。熟成期間が短いリーズナブルなワインはステンレスのタンクの中だけで熟成されますが、一部のワインはオークの樽に移しかえ更に熟成を重ねます。こうすることでワインはオークの香りに包まれ、独特の風合いをもつことになります。地下貯蔵庫には温度や湿度が一定に保たれ年代物のワインやオークの樽がいくつも並べられていました。

 見学を終えると2階の部屋に移動して試飲会が始まりました。次々に新しいワインのボトルが空けられ、皆さんそれぞれその違いを楽しんでいました。私は運転のため口にすることができず、じっと苦しい時間を過ごす結果となりました。この場に塚原嘉章社長も同席され井筒ワインの歴史や現在の取り組みについてお話をお伺いすることができました。井筒ワインは創業して80年近くの歴史がありますが、今では年間生産量が約70万本にもなります。社の方針として原料に輸入のぶどう果汁は使用せず、地元の生産者とともに歩んでこられた歴史があります。かつては大手メーカーにワイン原料を卸していましたが、今では全て自社ブランドだけでワインを製造。原産地が長野県産100%で高い品質であることを示す認定(NAC)ワインの普及もすすめてきました。桔梗ケ原産メロル種ぶどうは国際品評会でも高い評価を受け、国内約700社が加盟する国産ワインコンクールでは3つの金賞、2つの銀賞を受賞しています。片山さんとは30年来のお付き合いで、その出会いが無添加ワインを製造するきっかけとなったそうです。社内には(株)片山専用の貯蔵庫まで作られていました。

 試飲会終了後、残ったワインをお土産にいただきました。金賞を受賞した「NACカベルネ・ソーヴィニョン熟成2010」の赤ワインです。その日の宿で飲んだワインの美味しかったこと。無添加の井筒ワインはフルーティーで飲みやすいものが多いのですが、このワインは重厚で深みがある飲みごたえでした。亜硝酸塩を添加しているため(株)片山三では扱っていません(残念!)が、私にとってこの日は国産ワインの更なる魅力を勉強できた一日となりました。

 

<取材:2012.9.22>

自社農場のぶどうの出来を見る鵜沢さん

近隣の生産者が次々にぶどうを搬入します

国産ワインの可能性にチャレンジするワイナリーと生産者たち 

ワイナリーの前で参加者の皆さん

ベッカライ・ヨナタン 塚本さん

塚本さんの経歴とパンの原材料について

 

 塚本さんはもともと実家がパン店さんだったそうです。しかし、子ども時代からこの仕事が大変だったのを知っているだけに後を継ぐつもりはなかったそうです。学生時代は海外を放浪し、当時欧米から広がった玄米正食の考え方に影響を受けました。マクロビオティックのコックなどで修業を積まれたそうです。
 こうした仕事をしながら玄米食が必ずしも消化がよい食べ方ではないこと、ゆっくり食事に時間を取れない人でも食べやすい食事はないものかと感じていました。そんな時、惹かれたのが発酵の過程を経て消化が良く栄養を丸ごと吸収できる全粒粉を使ったパンづくりです。奥さんがスイスの方でライ麦などを使った自家用のパンを焼いていたことがそのきっかけとなりました。その後パン作り一筋の人生を歩まれることになります。
 ヨナタンのパンの原材料は国産小麦を主原料に、できる限り素性の確かなもの、オーガニックな素材を使用しています。小麦は以前は農家と直接提携し自家製粉まで行っていましたが、今ではある程度広い面積で栽培している北海道産小麦を使用しています。うどんやおやきなどは地粉でいいのですが、パンは小麦のたんぱく質、炭水化物(でんぷん)量、酵素活性など品質が安定しているもので良いパンを焼くことができるためです。砂糖はてんさい糖と粗製糖を使用。油脂としてはオーガニックのパーム油を使用しています。生地の離型剤として菜種油を使用。菓子パンに使う卵は遺伝子組み換え飼料を与えない近所の平飼い卵、生クリームは北海道・よつ葉乳業、はちみつは国産品。またナッツやレーズンはノヴァなどのオーガニックのものを使用しています。また、有機アセロラの粉末を添加していますが、これは全粒粉の割合が高いとパンが膨らみにくいためビタミンCの代用品として使用してごく少量使用しています。

 

自家製酵母へのこだわり

 

 塚本さんは自分で焼いたパンを“天然酵母パン”とは呼びません。それはパン作りの中で一般的に使用されているイースト菌も自然に存在する酵母菌の一種であり、イースト菌を使ったパンを天然酵母パンと表現しても間違いではないからです。特定の酵母菌を抽出させたイースト菌は繁殖力が強く失敗なくパン作りができる優れた酵母菌ですが、独特のイースト臭があり味に深みが欠け、ケミカルな培養過程にも不安があります。
 パン工房で使用する酵母菌はドイツから輸入したホワイトサワー種、自家製のライサワー種、自家製の小麦粉で作ったサワー種それとこだま酵母です。まず「親種」から仕込みそこから「帰り種」を作り、パンを焼く前の「元種」を作ります。パン工房に生息するさまざまな酵母菌が仕込んだ酵母菌と共生しそれがヨナタンの“野生酵母”として個性を放ちます。
 かつて天然酵母パンと呼ばれたパンは時間が経つと酸味が出てきてパサつくものが多かったのですが、ヨナタンのパンにはそれがありません。塚本さんにそのことを話すと酸味も個性で美味しさの一つだが、今ではヨーロッパの食事パンも酸味が好まれない傾向にあるとのこと。パン工房では自家培養した「親種」から培養した「元種」を数回使用すると、自然界の中で発酵力の強い乳酸菌や酢酸菌が優位となり酸味が出るため、また元種に戻って酵母菌作りから始めます。イースト菌を使ったパン作りに比べて手間と時間がかかる作業ですが、出来上がったパンは時間をかけた分、旨みや奥行きがある味わい深いパンとなります。パン食文化の歴史が浅い日本では軽く、柔らかく、白いパンが好まれる傾向にあり、その折り合いをつけながら今の時代に合ったパンを焼いているそうです。

 

塚本さんのパン作りへの思い

天然酵母や国産小麦を使用したパンも最近では珍しくなくなり、中には特定の付加価値をつけて高価な価格で販売していることもあります。こうしたパンに比べるとヨナタンのパンはボリュームがあり食べ応えある割には高くありません。塚本さんは原材料に良いものを使用しても誰しもが健康的な生活を送って欲しいので、価格面でも考慮されているとのこと。過剰な内装をせず店舗を持たないのもその理由の一つ。相手先の送料の負担まで考えて焼き菓子も加え、毎週8~10種類ずつのパンと焼き菓子を組み合わせて製造しています。
 塚本さんは最近、自分の焼いたパンに健康的な効能があることがわかったと私に笑顔でお話して下さいました。近年の研究で人の免疫機能の6割が腸にあり、免疫機能を活性化させるものとして腸内細菌の重要性が明らかになりました。サワー種にはヨーグルトもびっくりするくらいのたくさんの乳酸菌成分が含まれ、善玉菌の環境を整え、免疫機能にも直接働きかけます。ヨナタンのパンにはサワー種の酵母菌がどれも使われており、パンの原料に食物繊維の多い全粒粉を使用するためこちらも腸内環境も調える働きをします。

 人は長い歴史の中で発酵や醸造から生まれた食品を食生活に取り入れて豊かな文化を創ってきました。時代の先駆けとして1980年代から自家酵母でパンを焼き続け美味しさと安全性、食べやすさなどを試行錯誤してきたヨナタンのパン。そこに食べる人を健康にしていくという新たな価値が加わり、塚本さんのパン作りへの挑戦は終わることがないことを感じて、私は工房を後にしました。

 

 

<取材:2008年1月4日> 

パン焼きオーブン 外国製で遠赤外線効果を出すため鉄板に薄い石を張っています。

野生酵母を使ってパンの魅力を発信する―

​民家のような工房 写真は塚本さん。

 
 
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